コンゴ川水界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 22:06 UTC 版)
コンゴ川(旧称ザイール川)はアフリカ大陸の中央部をらせん状にまわり、大西洋に流れ込む大河で、15世紀頃よりコンゴ王国、ルバ王国、ルンダ王国などの文明を形成してきた。コンゴ王国は河口付近からアンゴラ近辺まで分布するサバンナを中心として形成された王国で、ルバ王国、ルンダ王国はコンゴ川の源流域に成立したサバンナの長距離交易を中心とする王国である。しかし、これらの王国が形成される以前、およびコンゴ川流域の熱帯雨林地帯で古くから活動していたとされる民族に関しては断片的な記録しか存在しておらず、およそ全ての歴史を語ることは現時点では不可能となっている。 当時のエジプト王朝の資料から、少なくとも5000年前の段階で狩猟系民族がこの地で活動をしていたことが判明しており、紀元1世紀ごろまでの長期にわたって、森林地帯の資源を独占的に利用していた。紀元1世紀頃、バントゥー語族の南下の影響によりこの地に大きな変化が起こった。ナイジェリアとカメルーンの国境周辺にいた彼らがどうしてこの地へやってきたのかはいまだよくわかっていないが、鉄器を携え、農耕技術を伝えたバントゥー語族と、現地の狩猟を生業とする民族はうまく融合しあい、その数を増加させていった。5世紀に入ると東南アジアよりバナナが伝えられる。バナナはその生産性効率の良さから瞬く間にそれまで作られていたヤムイモやアブラヤシに取って代わって基幹農作物の位置を確立し、この地に住む住民の生活に大きな変革をもたらした。消費量を大きく上回る生産が可能となり、やがてそれはコンゴ川沿岸に居住する漁撈民族との物々交換という接触に繋がっていった。 こうして10世紀を迎える頃までには陸の民族と川の民族の広域な文化ネットワークが確立し、コンゴ川周辺に文化的な一体性を作り出した。これらの下地が15世紀の王国の設立に繋がっていったとされる。 14世紀後半に鍛冶師ヌティヌ・ウェネによって設立されたとされるコンゴ王国は1482年にポルトガルの探検者ディオゴ・カンによって「発見」され、ヨーロッパへ「紹介」がなされた。当初は対等の相互交流的な関係を持ち、1490年、当時のマニコンゴ(王)であったンジンガ・ンクウはキリスト教へ改宗し、ドン・ジョアンという洗礼名も授かっている。 最盛期のアフォンソ2世の時代には王国の版図は東西320キロ、南北480キロという広大な領地を持ち、中央集権的な制度を携えていた。支配下地域はそれぞれいくつかの州に分けられ、それぞれの州に統治者が存在し、統治者は貢物としてヤシ酒、果物、ウシ、象牙などをマニコンゴへ贈っていたようであった。 一方コンゴ川源流域においても1500年ごろにはルバ・ルンダの両王国が形成されていた。コロンゴという人物によって建国されたルバ王国は、首長を頂点として複数のクラン(父系民族)と奴隷が合体する社会構成をとっており、複数の首長の共同体として村を形成していた。彼らは農業・漁業を生業とし、さらには鉄・銅・塩などを交易品として東アフリカのインド洋沿岸地域民族と通商していたようである。また、チビンダ・イルンガによって建国されたルンダ王国もルバ王国と同様の形態を持っており、アフリカ東部やアンゴラなどと交易をしながら生活していた。特に銅が多く産出し、主要な交易品となったようである。 ポルトガルとの接触までの長い期間、大陸内部の閉じた世界で完結していたコンゴ川水界は、それまでの水産資源の産出、地域住民交流の為の交通手段に加え、新たに未知の大陸から来る産物を川にさかのぼって運搬する西の窓口として機能するようになった。その窓口よりもたらされた新しい作物キャッサバはバナナよりもさらに生産性・生育性が高い作物で、バナナが広がった時と同様、各地の農業形態に大きな変革を起こした。その他ヨーロッパからは銃、火薬、衣服などの工業製品や銅細工、鉛細工などの工芸品、肉や魚の燻製などが齎され、生活水準が飛躍的に向上している。一方コンゴ王国からは木材や土器、象牙、奴隷などが交易品として取引が行われていた。 コンゴ川水界における「奴隷」は初期の頃は地域間の戦争や犯罪者など、一時的に捕虜にした者を指していたようであったが、それを「労働資源」として交易品に加えることが15世紀初期の交易段階で既に行われていた。やがて奴隷の需要に対し供給が追いつかなくなるにつれ、交易当初のヨーロッパとコンゴの対等な関係は徐々に失われていき、強制的に奴隷を求めるようになり後述する奴隷社会へと繋がっていった。
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