キリスト教との出会い
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吉田は戦記「戦艦大和ノ最期」のゲラ刷りが全文削除処分となっていた同時期、この戦記の回覧写本の1冊を読んだというカトリック教会・今田健美(こんだたけみ)神父(1910年生 - 1982年没)から、来てほしいとの誘いを受けた。それまで吉田は宗教に対して無知と反感しかなかったが、「何か自分に訴える真実」を求めたい気持から、思い切って訪ねていった。 神父は、「神ということばも、信仰、宗教ということばも、キリストの名も」口にせず、吉田の得意な話題「美」などについて思うまま話させて、2人は一夜を語り明かした。この戦記を、「私の意を迎えるような一言半句をも口に」せず、手稿(手書き写本の一つ)を両手に抱きながら、「繰り返し拝見しました。声に出してよみました」と言った今田神父に対して、吉田は「初めて、自分の苦衷を汲み共に進んでくれる人に逢えたよろこび」を感じた。 それが端緒となり、「神父を通して、そのかなたのものを実感した神父をして神父たらしめ、神父をつかわしたそのものの息吹」を感じた吉田は、その後カトリックに入信し、25歳となった1948年(昭和23年)3月28日にカトリック世田谷教会で洗礼を受け、同じ3月から日銀内でカトリック研究会を主宰した。 当時日銀では、有志が集まり毎週金曜日の営業時間後に今田神父による「公教要理講解」を聴講しており、同年5月には、吉田が『今田健美神父述・公教要理講解筆記録』をまとめ、「今田神父へ捧ぐ」という短歌も作った。クリスマスには、吉田が創作した4幕の戯曲「犠牲」が世田谷教会で上演された。この劇はキリスト教の真理性をめぐる葛藤に悩む青年と神父との対話が軸になった作品で、吉田自身がこの青年役を演じた。 その後、1949年(昭和24年)2月にプロテスタント教徒の中井嘉子と婚約し、5月に世田谷教会で結婚式を挙げた。翌年1950年(昭和25年)の7月の27歳の時に、長女の未知を授かった。しかしながら、同年9月、東大の屋内体育館で友人たちとのバドミントンに参加した際、みんなが飲むサイダーの栓を抜くため屋外の鉄柵でサイダー瓶の口をこすって開けている最中、最後の瓶が破裂し眼球を直撃する事故となり右眼を失明した。吉田は1か月ほど入院し右眼は義眼となった。 それらの出来事の間、検閲により全文削除処分になっていた吉田の戦記は、改定を重ね口語体にしてみたり、端折ったりしながら、『新潮』や『サロン』に掲載するなどの挑戦を重ねた末に、初稿版と同じではないものの、文語体で1952年(昭和27年)8月に創元社からやっと初刊行された。 1956年(昭和31年)12月には長男・望を授かった。妻・嘉子が日本基督教団駒込教会の会員であったので、同教会牧師鈴木正久と親交を温める中、吉田は悩み迷いながらもプロテスタントの駒込教会(1958年から西片町教会と改称)に入会した。それは1957年(昭和32年)2月にニューヨークへ単身駐在する直前のことだった。1969年(昭和44年)7月の鈴木牧師の死後は、『鈴木正久著作集』の編集を行った。
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