キリスト教との出会いとは? わかりやすく解説

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キリスト教との出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 01:05 UTC 版)

吉田満」の記事における「キリスト教との出会い」の解説

吉田戦記戦艦大和ノ最期」のゲラ刷り全文削除処分となっていた同時期、この戦記回覧写本の1冊を読んだというカトリック教会今田健美(こんだたけみ)神父1910年生 - 1982年没)から、来てほしいと誘い受けたそれまで吉田宗教に対して無知反感しかなかったが、「何か自分訴え真実」を求めたい気持から、思い切って訪ねていった。 神父は、「神ということばも、信仰宗教ということばも、キリストの名も」口にせず、吉田得意な話題「美」などについて思うまま話させて、2人一夜語り明かした。この戦記を、「私の意を迎えるような一言半句をも口に」せず、手稿手書き写本一つ)を両手抱きながら、「繰り返し拝見しました。声に出してよみましたと言った今田神父に対して吉田は「初めて、自分苦衷汲み共に進んでくれる人に逢えたよろこび」を感じた。 それが端緒となり、「神父通して、そのかなたのものを実感した神父をして神父たらしめ、神父つかわしそのもの息吹」を感じた吉田は、その後カトリック入信し25歳となった1948年昭和23年3月28日カトリック世田谷教会洗礼を受け、同じ3月から日銀内でカトリック研究会主宰した。 当時日銀では、有志集まり毎週金曜日営業時間後に今田神父による「公教要理講解」を聴講しており、同年5月には、吉田が『今田美神父述・公教要理講解筆記録』をまとめ、「今田神父捧ぐ」という短歌作ったクリスマスには、吉田創作した4幕の戯曲犠牲」が世田谷教会上演された。この劇はキリスト教真理性をめぐる葛藤に悩む青年神父との対話が軸になった作品で、吉田自身がこの青年役を演じたその後1949年昭和24年2月プロテスタント教徒中井嘉子と婚約し5月世田谷教会結婚式挙げた翌年1950年昭和25年)の7月27歳時に長女未知授かったしかしながら同年9月東大屋内体育館友人たちとのバドミントン参加した際、みんなが飲むサイダーの栓を抜くため屋外鉄柵サイダー瓶の口をこすって開けている最中最後の瓶が破裂し眼球直撃する事故となり右眼失明した吉田1か月ほど入院し右眼義眼となった。 それらの出来事の間、検閲により全文削除処分になっていた吉田戦記は、改定重ね口語体にしてみたり、端折ったりしながら、『新潮』や『サロン』に掲載するなどの挑戦重ねた末に、初稿版と同じではないものの、文語体1952年昭和27年8月創元社からやっと初刊行された。 1956年昭和31年12月には長男・望を授かった。妻・嘉子が日本基督教団駒込教会会員であったので、同教会牧師鈴木正久親交温める中、吉田悩み迷いながらもプロテスタント駒込教会1958年から西片町教会改称)に入会した。それは1957年昭和32年2月ニューヨークへ単身駐在する直前のことだった。1969年昭和44年7月鈴木牧師死後は、『鈴木正久著作集』の編集行った

※この「キリスト教との出会い」の解説は、「吉田満」の解説の一部です。
「キリスト教との出会い」を含む「吉田満」の記事については、「吉田満」の概要を参照ください。

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