キャラウェイ旋風
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「ポール・W・キャラウェイ」の記事における「キャラウェイ旋風」の解説
キャラウェイは1961年2月16日から1964年7月31日まで第3代琉球列島高等弁務官を務めた。しかし、アメリカ上院議会が彼の中将昇進を未だ承認していないにも関わらず、沖縄に到着した彼は中将の証である3つ星勲章を身に着けていた。これは沖縄住民に強い印象を与え、そして一刻も早く住民の地位を確立することが重要だと考えたためである。 キャラウェイは、沖縄は中国に対する防衛のため、アメリカ軍支配における重要な地域であると考え、さらにアメリカ軍による占領は、沖縄にとって前向きな力になると信じた。沖縄経済は彼の支配下で成長し、沖縄が日本復帰すれば権威主義者による支配や沖縄住民に対する差別が行われると考えた。キャラウェイは沖縄の政治家は有能とみなしたが、彼らとは対等な立場にないと考えた。 「自治とは現代では神話であり存在しない。琉球が再び独立国にならないかぎり不可能」 — ポール・キャラウェイ、1963年3月5日 金門クラブ3月月例会 彼は電力価格の値下げ、また著名な銀行の幹部を詐欺の容疑で逮捕するなど沖縄の金融業界の改革を行った。実際にはキャラウェイ本人が行った命令ではなく、高等弁務官命令という名目で琉球政府が金融機関への不正摘発に踏み切ったとされる。占領下における銀行・水道・電力・石油事業は実質的には「米国民政府の独占経営」状態だったといわれており、これらの沖縄での事業から得られる収益の一部は「弁務官資金」としてストックされ、親米派の政治家にばらまかれる仕組みになっていた。彼は住民による自治運動を厳しく鎮圧し、カリフォルニアの当時の地元紙は「左翼組織からは非難を受けたが、沖縄の外国の実業家からは賞賛された」と伝えている。 本土復帰を望む運動には鎮圧をさしむけ、琉球政府の存在を軽視し、立法院が議決した法案にはつぎつぎと拒否権を発動した。また沖縄の議員選挙に介入しては人民党候補者の候補資格を失効させ、また、軍雇用者の採用には厳しく思想調査をおこない、反米と見なされれば容赦なく追放された。「高等弁務官」という強大な権限をふりまわす行為は、住民からはキャラウェイ旋風と呼ばれた。1963年3月5日、当時、沖縄の鹿鳴館と呼ばれていた那覇市のハーバービュー・クラブにおける金門クラブ月例会で、「沖縄住民による自治は神話に過ぎない」「琉球政府への権限委譲は行政命令にも規定し、努力も払われているが現在の琉球政府の状態ではまだまだ」と発言し、住民らによる自治を否定した。 大城将保は、米大統領行政命令によって「高等弁務官」に与えられた権限は絶大なもので、①裁判の移送権、②法令の公布・立法の拒否権、③公務員の罷免権、④刑の執行の停止・恩赦、⑤安全保障上必要な場合のすべての権限の行使を含み、これらを縦横無尽に行使すれば、いとも簡単に「80万沖縄住民は基本的に専制支配のもとで無権利状態におかれる」ということを歴史的に実証したものだと指摘する。 「5 Fools より Tokyo 6 が怖い」強権的な統治手法で知られたキャラウェイ高等弁務官の口ぐせだった。 — メディアの役割「復帰」まで関心薄く(沖縄 返還交渉と安保:5)朝日新聞 (1996年4月11日) キャラウェイは、彼が 5 Fools と呼んだ地元紙を侮蔑していたが、閉じられた占領地の状況が、Tokyo 6 と呼んだ日本「本土」の時事、共同両通信、朝日、読売、毎日各新聞、NHKの特派員らに伝わることを何よりも警戒していたという。米国民政府はボーローポイント基地などに傍受のための外国放送情報局 (FBIS) や CIA の拠点を持ち、住民の動向から地元メディア、さらに本土のメディアまで傍受し記録していたことが情報公開でわかっているが、このように、米軍の箱庭となっていた沖縄占領を持続するためには、日本の「無関心」が必要だということをキャラウェイはよく理解していた。 .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} (左)当時の那覇市長西銘順治とキャラウェイ(中)本部町で視察を行うキャラウェイ(右)報告書に署名するキャラウェイ
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