キハ40形・キハ45形
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 07:50 UTC 版)
「国鉄キハ08系気動車」の記事における「キハ40形・キハ45形」の解説
キハ40形はオハ62形を改造した両運転台車で、1960年(昭和35年)に1両、1962年(昭和37年)に2両の計3両、キハ45形はオハフ62形を改造した片運転台車で、1960年に2両、1962年に3両の計5両、両形式全車とも北海道の苗穂工場で改造された。 キハ45形はもとの車掌室を運転台に改造し、キハ40形は出入り台(デッキ)を車体内側に移設して前後に運転台を新設した。 妻面には、他の一般形気動車に準じて窓や貫通扉が設けられたが、車体断面は屋根の深い客車時代のままで、前照灯も幕板に埋め込まれるなど、同時期の一般的な気動車とは一線を画す表情をしている。乗務員室扉も車掌側にのみ設置され、運転士側は小窓が設けられただけで、扉は設置されなかった。苗穂機関区・釧路機関区に配置されている。 台車も、動力台車は気動車用のDT22Aを新製し、付随台車は1960年改造のキハ40 1とキハ45 1, 2は同じ客車用ながらTR11からTR23に変更、1962年改造のキハ40 2, 3とキハ45 3 - 5は、気動車用のTR51Aを新製している。この時のDT22A・TR51Aは、通例のような大手車両メーカー・台車メーカーではなく、苗穂工場の地元札幌市に所在し、札幌市電の路面電車や道内の簡易軌道の車両製作・改造を手がけていた泰和車輌が製作・納入した。背景には地方産業育成の意図があったと思われるが、国鉄では珍しい事例である。台車構造やブレーキ取り回しの問題から、心皿高さが客車時代に比べ70mm持ち上がっている。ブレーキ装置は気動車用のDA1系に変更されたが、一般の気動車より車重がかさむため、テコ比を変更して効きを強めてあった。 キハ40 1は先行試作的要素が強く、運転台前面窓はキハ10系用の小形のもの、運転士横の小窓は乗務員室扉用の幅の狭い落とし窓、正面窓下部には補強用の帯板であるリブが残るなど、他車とは異なる特徴を持つ。また、キハ45 1、2は、前面窓はキハ20系なみに拡大されたが、運転室脇の窓はオハフ62形時代の窓を引き違いにしたのみであった。 エンジンは前述の通りDMH17Hを搭載するが、エンジン排気は客車改造による車体構造の制約から、キハ10系以降の国鉄気動車で標準であった屋上排気のための配管取り回しが困難で、戦前形気動車などと同様の床下排気となっている。暖房装置は客車式の蒸気暖房から、キハ22形と同様のエンジン冷却水を熱源とする温水暖房に変更された。 当時の北海道では気動車が慢性的に不足しており、これらの客車改造車は輸送力増強の手段として期待された。 しかし、さほど軽量ではない客車にエンジンを搭載したことで車体重量は嵩み、走行性能は良くなかった。また座席背もたれを板張りからモケット張りに改造されている車両もあったが、種車の仕様を継承した座席間隔は狭く、内装も客車時代の内装をペンキで塗り潰したかニス塗りのままの半鋼製で、新造された気動車に比して見劣りした。 もとより軽量化よりも牽引時の強度を重視した客車の鋼体は、必ずしも気動車に向くものとはいえず、実際キハ22形等と比べ6 t程度もの重量増となったため、加速・登坂・制動性能などへの影響は避けられなかった。 実際の運用にも制約を受け、多くの場合はキハ21形やキハ22形など、より軽量で性能に余裕のある一般型気動車と併結運用することで非力さを補うことが多かった。苗穂配置車は、定山渓鉄道線(1969年廃止、現社名・じょうてつ)の東札幌 - 札幌間の乗り入れ列車との併結運用など、限られた運用に充てられていた。釧路配置車はその非力さ故に、急峻な狩勝峠越えでは9600形蒸気機関車を補機として連結する必要があったという。このため急勾配でない帯広以東、主として根室方面(現・花咲線)での運用に充てられていた。 このように問題が多い車両でありながら、改造コストは1両1,200万円(当時)に及び、1エンジン気動車の完全新造費用が1両2,000万円(当時)であったのに比して割高に過ぎた。結果としては扱いにくい失敗作といわざるを得ない状況で、大量増備には至らず、いずれも1971年(昭和46年)までに除籍(廃車)された。 キハ08 1は苗穂工場に隣接する北海道鉄道学園(現・JR北海道社員研修センター)に教材として残されたが、札幌 - 苗穂間を走る列車からも見える位置に置かれていたため、ファンにはよく知られた存在であった。教材としての必要から、縦形機関の気動車と同様、通路の床にエンジン点検口があけられた。1980年(昭和55年)頃まで同所に残されていたが、後に解体された。 キハ08 3は京都府の加悦鉄道に譲渡され、便所の撤去等の改造を施工された上で1974年(昭和49年)から使用された。加悦鉄道は1985年(昭和60年)に廃止されたが、キハ08 3はその後も解体されずに保管され、現在も京都府与謝郡与謝野町の「加悦SL広場」において静態保存されている。本系列で唯一の現存例である。
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