オーストラリアン・オペラ:1970年-1996年
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「オペラ・オーストラリア」の記事における「オーストラリアン・オペラ:1970年-1996年」の解説
1970年には、オーストラリアン・オペラとして知られるようになった。1970年代には組織のあり方も、本拠地についても、かなりの変化があった。1972年、エドワード・ダウンズ(以前にロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスと提携していた)が音楽監督となった。彼が最初に行ったのは、リヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』の初演をオーストラリア、メルボルンのプリンセス・シアターで上演することだった。そしてその直後に、プロコフィエフの『戦争と平和』がシドニー・オペラハウスの初演の夜の公演として続いた。シドニー・オペラハウスの竣工式に先立つこと数日のことであった。 シドニー・オペラハウスは、他の建物との区別が容易につくため、すぐにシドニーの文化的な目印となった。そして、オペラ・カンパニーにとっては継続的な上演を行うための本拠地となり、したがって、カンパニーのレパートリーが増え、地域のファンが増えることにつながった。聴衆の数は、ジョーン・ザサーランドがオーストラリアン・オペラといっしょに演じた、オッフェンバックの『ホフマン物語』の上演によって確かに増加した。それに加えて、1974年にはオーストラリア人による作品3作が上演された。フェリックス・ワーダー『ザ・アフェア』、ラリー・シッツキー『レンツ』、ピーター・スカルソープ『ライツ・オヴ・パッセージ』である(『ライツ・オヴ・パッセージ』はオペラハウスのこけら落としで上演される予定だったが間に合わなかった)。 1976年にはリチャード・ボニングが音楽監督に就任し、カンパニーの初めての海外公演、すなわちゲオルク・ティントナーの指揮によるニュージーランドでの『リゴレット』公演と、ヤナーチェク『イェヌーファ』の公演を成功させた。これに続いて1978年には、第1回オーストラリアン・オペラ国内ツアーがオーケストラを同行させる形で行われ、ニュー・サウス・ウェールズ州の東北部へ行っている(ティントナー指揮、クィーンズランド・シアター・オーケストラ、曲は『ドン・パスクァーレ』)。1970年から1990年にかけては、劇場監督はエリケ・ナイデハルトが務めている。 1977年、ニュー・サウス・ウェールズ・フレンズ・オヴ・ザ・オーストラリアン・オペラとザ・オーストラリアン・エリザベサン・シアター・トラストがプロのオペラ歌手育成を目的として、アームストロング=マーチン奨学金を設立した。 1980年代は、「テレビのためのオーストラリアン・オペラ」による公演の収録が済んでから何年も経っており、オーストラリア放送協会とオーストラリアン・オペラによって、初めてのラジオとテレビの同時放送が行われ、ヨハン・シュトラウス2世の『こうもり』が上演された。200万人以上の視聴者がこの中継を視聴している。その後、数年間続いた公演の同時放送はオーストラリアの何百万戸もの家庭で視聴された。 人気のあるところでは何が起きていたかというと、大当たりの成功を収めたのは、1983年にルチアーノ・パヴァロッティとジョアン・サザーランドが共演した、シドニー・オペラハウスのコンサート・ホールで行われた公演であった。リチャード・ボニングの指揮でエリザベサン・シドニー・オーケストラが演奏した(メルボルンの姉妹オーストラはエリザベサン・メルボルン・オーケストラ。今日ではこの2つはそれぞれ、オーストラリアン・オペラ・アンド・バレエ・オーケストラ、シドニー・アンド・オーケストラ・ヴィクトリアとして知られている)。この、公演の全国的なラジオ・テレビ同時放送によって、室内イベントとして過去最高の大成功を収めている。もう一つの成功したコンサートとしては、ザサーランドとマリリン・ホーンが共演したコンサート・ホールでの公演が挙げられる。 その上1980年代には、いくつかの革新的な特徴が形成された。第1に、シドニー広場での「公園のエッソ・オペラ」である。これは、すぐに例年行われるイベントになった。そして今日では「シドニー広場のオペラ」と呼ばれている。その名の通り、毎年10万人もの観客が集まる催しとなっている。これに似た例年の屋外イベントとして、2万5千人以上の観客が集まるのだが、メルボルンで開催されているものがある。第2に、オーストラリアン・オペラのための「エッソ・ヤング・アーティスツ・ディヴェロップメント・プログラム」が挙げられる。第3は、「オーストラリアの作曲プログラム」である。このプログラムはブライアン・ハワードの「メタモルフォーシス(=変容)」の発表から始まった。 他の革新的プログラムとしては、「国立オペラ・ワークショップ(=作品について知識と議論を交換し、理解を深める勉強会)」がある。これは、オーストラリア人の作曲家達に、オーストラリアン・オペラから歌手に出演してもらって、ワークショップの形で自分の作品を上演することを可能にするものである。最後に、「オペラアクション」が挙げられる。「青年教育プログラム」であり、イベントのプログラムである。その中には青年達による3度のプッチーニ『蝶々夫人』の公演も含まれており、1986年には、『至点の風』という初公開の青年オペラについて、70人の学生で台本、音楽、振り付け、オーケストラを完成させ、シドニー・オペラハウスで上演したのである。 カンパニーは1980年代の10年間を通して徐々に組織を改革し、1984年にモファット・オクスンボウルドを芸術監督に迎えることを決定し、また、リチャード・ボニングの10年にわたる音楽監督の契約が切れるのに伴い、1987年から彼が名誉音楽監督ならびに第一客演指揮者となることを発表した。 1988年には、オーストラリア200年記念祭実行委員会と連携し、オペラ・オーストラリアは、ブリスベーン、ダーウィン、ホーバート、メルボルン、パースといった場所でツアーを行い、また、メルボルンではラ・プロジェクト(最初の舞台から歌手達が直接参加している、また演出監督のバズ・ラーマンと初めて提携したところの、音楽劇場作品)と合同で、国立オペラ・ワークショップを開催している。 ジョーン・サザーランドは1990年にオーストラリアン・オペラと共に引退記念コンサートを開き、マイアベーアの『ユグノー教徒』の公演を行った。2年後、カンパニーはリハーサル・スタジオの名前を、彼女にちなんでデイム・ジョーンと名付けた。 1990年代初頭は、カンパニーの役目の上で2つの重要な変化が見られた。第1に、1991年に「オーストラリア・オペラ芸術会員」を定めたことである。これは、オーストラリアの音楽芸術・舞台芸術の世界で最も重要な役割を果たした人達からなる団体である。第2に、オーストラリアン・オペラとバレエ・オーケストラが一つに統合され、オーストラリアン・オペラとなり、オペラとバレエのためのオーケストラがカンパニーのために継続的に音楽制作をすることになったのである。 オーストラリアン・オペラにとってオーストラリア国外での初めての公演が1994年に行われ、カンパニーはブリテンの『夏の夜の夢』をエディンバラ国際フェスティバルで上演した。さらに、バズ・ラーマンの制作による『ラ・ボエーム』が300を越える北米のテレビ局で放映され、さらに続いて、全世界でビデオが発売され、ブロードウェイでの公演が行われた。
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