オーストラリアン・オペラ:1970年-1996年とは? わかりやすく解説

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オーストラリアン・オペラ:1970年-1996年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/22 20:35 UTC 版)

オペラ・オーストラリア」の記事における「オーストラリアン・オペラ:1970年-1996年」の解説

1970年には、オーストラリアン・オペラとして知られるようになった1970年代には組織あり方も、本拠地についても、かなりの変化があった。1972年エドワード・ダウンズ以前ロンドンロイヤル・オペラ・ハウス提携していた)が音楽監督となった。彼が最初に行ったのは、リヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』の初演オーストラリアメルボルンのプリンセス・シアターで上演することだった。そしてその直後に、プロコフィエフ『戦争と平和』シドニー・オペラハウス初演の夜の公演として続いたシドニー・オペラハウス竣工式先立つこと数日のことであったシドニー・オペラハウスは、他の建物との区別容易につくため、すぐにシドニー文化的な目印となった。そして、オペラ・カンパニーにとっては継続的な上演を行うための本拠地となり、したがってカンパニーレパートリー増え地域ファン増えることにつながった聴衆の数は、ジョーン・ザサーランドがオーストラリアン・オペラといっしょに演じたオッフェンバックの『ホフマン物語の上演によって確かに増加した。それに加えて1974年にはオーストラリア人による作品3作が上演された。フェリックス・ワーダー『ザ・アフェア』、ラリー・シッツキー『レンツ』、ピーター・スカルソープ『ライツ・オヴ・パッセージ』である(『ライツ・オヴ・パッセージ』はオペラハウスこけら落とし上演される予定だったが間に合わなかった)。 1976年にはリチャード・ボニング音楽監督就任しカンパニー初めての海外公演、すなわちゲオルク・ティントナー指揮によるニュージーランドでの『リゴレット』公演と、ヤナーチェクイェヌーファ』の公演成功させた。これに続いて1978年には、第1回オーストラリアン・オペラ国内ツアーオーケストラ同行させる形で行われニュー・サウス・ウェールズ州東北部行っている(ティントナー指揮、クィーンズランド・シアター・オーケストラ、曲は『ドン・パスクァーレ』)。1970年から1990年にかけては、劇場監督はエリケ・ナイデハルトが務めている。 1977年、ニュー・サウス・ウェールズ・フレンズ・オヴ・ザ・オーストラリアン・オペラとザ・オーストラリアン・エリザベサン・シアター・トラストがプロオペラ歌手育成目的として、アームストロングマーチン奨学金設立した1980年代は、「テレビのためのオーストラリアン・オペラ」による公演収録済んでから何年経っており、オーストラリア放送協会とオーストラリアン・オペラによって、初めてのラジオテレビ同時放送が行われ、ヨハン・シュトラウス2世の『こうもり』が上演された。200万人上の視聴者この中継を視聴している。その後数年続いた公演同時放送オーストラリアの何百万戸もの家庭視聴された。 人気のあるところでは何が起きていたかというと大当たり成功収めたのは、1983年ルチアーノ・パヴァロッティとジョアン・サザーランドが共演したシドニー・オペラハウスコンサート・ホール行われた公演であったリチャード・ボニング指揮でエリザベサン・シドニー・オーケストラが演奏したメルボルン姉妹オーストラはエリザベサン・メルボルン・オーケストラ。今日ではこの2つそれぞれ、オーストラリアン・オペラ・アンド・バレエ・オーケストラ、シドニー・アンド・オーケストラ・ヴィクトリアとして知られている)。この、公演全国的なラジオ・テレビ同時放送によって、室内イベントとして過去最高の大成功収めている。もう一つ成功したコンサートとしては、ザサーランドとマリリン・ホーン共演したコンサート・ホールでの公演挙げられる。 その上1980年代には、いくつかの革新的な特徴形成された。第1にシドニー広場での「公園のエッソ・オペラ」である。これは、すぐに例年行われるイベントになった。そして今日では「シドニー広場オペラ」と呼ばれている。その名の通り毎年10万人もの観客が集まる催しとなっている。これに似た例年屋外イベントとして、2万5千人上の観客が集まるのだが、メルボルン開催されているものがある。第2に、オーストラリアン・オペラのための「エッソ・ヤング・アーティスツ・ディヴェロップメント・プログラム」が挙げられる第3は、「オーストラリア作曲プログラム」である。このプログラムはブライアン・ハワードの「メタモルフォーシス(=変容)」の発表から始まった。 他の革新的プログラムとしては、「国立オペラ・ワークショップ(=作品について知識議論交換し理解を深める勉強会)」がある。これは、オーストラリア人作曲家達に、オーストラリアン・オペラから歌手出演してもらってワークショップの形で自分作品上演することを可能にするものである最後に、「オペラアクション」が挙げられる。「青年教育プログラム」であり、イベントプログラムである。その中には青年達による3度プッチーニ『蝶々夫人』公演含まれており、1986年には、『至点の風』という初公開青年オペラについて、70人の学生台本音楽振り付けオーケストラ完成させ、シドニー・オペラハウス上演したのであるカンパニー1980年代10年間を通して徐々に組織改革し1984年にモファット・オクスンボウルドを芸術監督迎えることを決定しまた、リチャード・ボニング10年にわたる音楽監督契約が切れるのに伴い1987年から彼が名誉音楽監督ならびに第一客演指揮者となることを発表した1988年には、オーストラリア200年記念祭実行委員会連携しオペラ・オーストラリアは、ブリスベーンダーウィンホーバートメルボルンパースといった場所でツアー行いまた、メルボルンではラ・プロジェクト(最初の舞台から歌手達が直接参加している、また演出監督バズ・ラーマン初め提携したところの、音楽劇場作品)と合同で、国立オペラ・ワークショップを開催している。 ジョーン・サザーランド1990年にオーストラリアン・オペラと共に引退記念コンサート開きマイアベーアの『ユグノー教徒』の公演行った2年後カンパニーリハーサル・スタジオの名前を、彼女にちなんでデイム・ジョーンと名付けた1990年代初頭は、カンパニー役目の上2つ重要な変化見られた。第1に1991年に「オーストラリア・オペラ芸術会員」を定めたことである。これは、オーストラリア音楽芸術舞台芸術世界で最も重要な役割果たした人達からなる団体である。第2に、オーストラリアン・オペラとバレエ・オーケストラが一つ統合され、オーストラリアン・オペラとなり、オペラバレエのためのオーケストラカンパニーのために継続的に音楽制作をすることになったのである。 オーストラリアン・オペラにとってオーストラリア国外で初めての公演1994年行われカンパニーブリテンの『夏の夜の夢』をエディンバラ国際フェスティバル上演した。さらに、バズ・ラーマン制作による『ラ・ボエーム』が300越え北米テレビ局放映され、さらに続いて全世界ビデオ発売されブロードウェイでの公演が行われた。

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