エレキ禁止令への対抗/学校訪問
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「寺内タケシ」の記事における「エレキ禁止令への対抗/学校訪問」の解説
第一期ブルージーンズ結成後しばらくして、エレキギターやグループ・サウンズは非行化の温床だという声が強まり、多くの学校でエレキギターが使用禁止にされた。高校生から寺内に手紙が届くようになり、寺内は各地の高校を訪ねたが、ほとんどは門前払いで、校長が話を聞いてくれたのは3校だけだった。 そこで寺内は母校の土浦三高を訪ねると温かく迎えられ、寺内はブルージーンズと共に母校で演奏。これが1500校を超えようとしている「ハイスクールコンサート」の第1校目であった。そうしたなかで1967年に「レッツゴー運命」(ベートーヴェンの「運命」のリメイク。1967年11月30日発行のレコード・マンスリーのシングルチャートで5位を記録)で第9回日本レコード大賞編曲賞を受賞し、理解が広まったという。 1976年にはソ連在住の白血病の8歳の少女に生演奏を聴かせるため、3千万円の赤字を覚悟でソ連ツアーを決行。この最中の9月にベレンコ中尉亡命事件が起きたが、直後の9月9日-12日にモスクワ・スポーツ宮殿で行われたコンサートは、当局の妨害もなく連日満員となった。最終的に52日間のツアーが続けられ、42万人の観客を集めた。後に1981年(45日間、観客130万人)、1984年(43日間、観客57万人)にもソ連ツアーを開催。 この功績が認められ1981年12月22日には日本国際連合協会から感謝状と国連平和賞、84年には文化功労賞と音楽功労賞をそれぞれ授与された。なお、この年にはブラジル、アルゼンチンでもツアーを行っている。 エレキが世間に認められるようになると、本格的にハイスクールコンサートをはじめとする活動を積極的に行うようになった。その折、S字結腸ガンで入院し、手術を控えていた2002年2月18日にブルージーンズのもとヴォーカリストの長男・章が覚醒剤取締法違反(使用)で逮捕され、寺内は大きなショックを受ける。彼は緊急謝罪会見を開き「息子と縁を切る」と発言、息子は「父のプレッシャーを感じ」てそのストレスを緩和するために、違法薬物を使用したと供述した(5月に懲役1年6月・執行猶予4年の有罪判決。2006年に猶予満了)。ハイスクールコンサートや息子への絶縁発言などは、一部のロックファンから、ロックじゃない、との批判も受けた。4月11日、神奈川県民ホールにて「不死鳥テリー!蘇る!コンサート」を開催。 2004年12月、エレキギターへの優れた演奏と青少年への情操教育への貢献が認められ、文化庁より長官表彰を受けた。2005年6月には衆議院第一別館において、国会議員をはじめ関係者を集め「ハイスクールコンサート国会報告会」を開いた。 2006年11月、中学生対象のコンサートも始めるが、12月にうっ血性心不全と肺炎のため入院し2007年1月17日にカテーテル導入手術を受け1月22日に退院し、10日後にはまた演奏活動に復帰している。この時に持病の不整脈も治療し、「15歳から20代の心臓」とお墨付きをもらったそうである。 2008年には数々の社会貢献活動を多として緑綬褒章を受章した。 横浜市内に、高層マンションを何件か建造している。また、母校の関東学院大学で土木工学と土木建築の講座も持っていた。 1995年1月17日に起こった阪神淡路大震災(奇しくも寺内の誕生日であった)で救助活動が遅れた反省を踏まえて、パニックが起きた際にも適切な避難誘導ができるように、災害対策車「非常災害用音響本部車」の開発に取り組み、2年後の1997年5月に完成させた。
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