エイブル社長として
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当初は電子部品や電源、ブラウン管等の輸出商社として営業していたが、設立から2年後にアミューズメント機器関連の国内販売事業に着手。当時、メーカーは基板にコネクターをつけて販売しておらず街の電気屋でそれを入手することはできなかった。ユーザーはメーカーに交渉してコネクターを入手する必要があった。その面倒を省くため、あらかじめコネクターを大量に仕入れ基板につけて販売することにより事業を拡大していった。その後も日本で初めてクレーンゲームの景品にぬいぐるみを使用するアイデアなどを考案し、それらを実行することで売上を伸ばした。低価格で高品質な製品を作れるという理由から韓国の企業に製作を依頼し、国内のぬいぐるみ景品シェア拡大を図った。その結果、1980年代後半には全国のゲームセンターでぬいぐるみが景品として使われるようになった[出典無効]。 1990年にはシングルロケ運営会社シティレジャーを設立。1995年には全国850店舗を運営し、保有マシン数は15000台を超えた。 1994年のザ・フラッシュ・チャンスを皮切りに大型機の開発に着手。その後もプロボウルシリーズやチャンスシリーズなど自社製品の開発を行った。それに加えてデイトナUSAやリッジレーサーなどの販売、魔法大作戦などの発売を行い1990年代には年商100億円前後を断続的に記録。ディストリビューター最大手と呼ばれるまでに会社を成長させた。 1994年2月には、当時メーカーに比べて立場の弱かったディストリビューターの地位向上と交流の場として業界初の販社団体アミューズメントビジネス研究会を発足させ同会会長に就任。ローラートロン社の湯本聖一と共に、販売網の強化とより発展的なマーケットの拡大に寄与した。 1996年1月に行われたエイブルサンクスツアーでは、ツアー先であったサイパンにて副知事夫妻及び老人福祉協会理事夫妻を来賓として招待した上で寄付金100万円を贈呈し現地テレビニュースや新聞で大きく取り上げられた。 1998年5月21日に日本アミューズメントマシン協会(JAMMA)理事に就任。1999年に起きたAMショー中古機出展禁止問題では当事者のママ・トップとその他各メーカーなど業界関係者との話し合いの場として「拡大流通委員会」を設けた上で、2000年1月に消費部会流通委員長として「中古機販売は必要不可欠である」との意見をまとめ、中古機販売は今後も行うことは当然としながらも、中古品をショーに出展することは反対する姿勢を取った。 2003年6月には音声機能付き歯ブラシメロピカで物販事業に参入。初参入製品ながらも、朝日や読売といった大手新聞をはじめ日経トレンディ、オレンジページ、ひよこクラブ等の雑誌などでも取り上げられ、半期出荷数は100万本に上った。2004年8月には、「アイディアと製品の魅力が直結しており、非常にわかりやすい形で製品化されている。歯磨き嫌いの子供が増加している現状に一石を投じる楽しい発明」との理由から朝日中小企業経営情報センターより優良商品として表彰された。その他にもアミューズメント業界初の自動おしぼり機MATEや、「子供の遊び場」の原型となった幼児用室内設備コンビキッズパティオなどを世に送り出した。 創業以来順調に進んでいた経営が、2005年8月に開発したマルチライブボディの生産遅れによる資金繰りの悪化を原因に下降し始める。2005年下半期の業績が過去最低の59億4100万円を記録し、そこへバブル期の不動産取得や先行資金需要の発生による借入金の増加の中での銀行の融資ストップが重くのしかかり経営を圧迫した。 2006年5月、民事再生手続を申請し同日保全命令を受けた。その後も経営続行による会社再建の意欲を示すものの同年8月に債権者であった加賀電子の申し出によりに経営権を7000万円で売却。加賀電子のアミューズメント部門(特機事業本部)に引き継がれ、のち子会社化された。(加賀アミューズメント)そのため、熊谷がエイブルコーポレーション社長時代に開発した製品及びそれらの販路等の一切の権利を失った。
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