アーユルヴェーダ医学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 05:59 UTC 版)
詳細は「アーユルヴェーダ」を参照 パキスタンのメヘルガルで、インダス文明ハラッパー時代(紀元前3300年頃)の人々が医学・歯学の知識を持っていたことが考古学者によって発見された。調査を行ったミズーリ大学コロンビア校の物理人類学者アンドレア・クシナは、ハラッパーの男性の歯を洗浄している際にこれを発見した。また同地域の後の調査によって、9千年前に歯の穿孔が行われていた証拠が見つかった。 アーユルヴェーダ(आयुर्वेद:生命の知識)は、南アジアで2000年以上前に作られた、成文上の医学体系である。チャラカ(Charaka)とスシュルタ(Suśruta)の2学派のテキストが有名。これらのテキストには、宗教文学『ヴェーダ』中の古代医学思想とのある程度の関連が見られ、初期アーユルヴェーダと初期仏教・ジャイナ教文学との直接的な歴史的関係が歴史家によって指摘されていた。アーユルヴェーダの最初の出発点は、紀元前2千年紀初期の特別な薬草の慣行を総合したものが基礎になっていると思われる。多大な理論的な概念化とともに、新たな疾病分類や療法が紀元前400年ごろ以降加えられ、仏教その他の思想家のコミュニティから発表されたものであろう。 チャラカが改編した『チャラカ・サンヒター』には、健康や病気は前もって決まっておらず、寿命は人の努力によって延ばせるとある。スシュルタに帰せられる『スシュルタ・サンヒター』では、医学の目的を、病気の症状を治し、健康を守り、寿命を延ばすことであると定義している。どちらの著作にも、数多くの病気に対しての検査・診察・処置・予後について書かれている。古代インド医学は内科を重視するが、『スシュルタ・サンヒター』は、鼻形成術・切れた耳たぶの形成・会陰部切石術・白内障手術などの様々な種類の外科処置法について書いていることが特徴的である。 アーユルヴェーダの古典では、医学は8部門に分けられている。すなわち、 治病医学内科学(カーヤ・チキッツァー) 小児科学(バーラ・タントラ) 精神科学 = 鬼人学(ブーダ・ヴィディヤー) 耳鼻咽喉科学及び眼科学(シャーラーキャ・タントラ) 外科学(シャーリャ・チキッツァー) 毒物学(アガダ・タントラ) 予防医学老年医学 = 不老長寿法(ラサーヤナ) 強精法(ヴァジーカラナ) の8科である。 アーユルヴェーダには、インド錬金術の影響も大きい。アーユルヴェーダの研究生は、上記8部門とは別に、調剤と施術に必要な10科の技術を学ぶことになっていた。すなわち、蒸留法・手術法・料理・園芸・冶金・砂糖の製作・薬学・鉱物の分析と分類・金属の混合・アルカリの調剤である。広範な内容が、直接的な臨床科目の説明の中で教授された。例えば、解剖学は外科の授業の一環として、発生学は小児学と産科学の授業の一環として、生理学と病理学の知識はすべての臨床科目に織り込まれた。 イニシエーションの終わりには、グルが厳粛な演説を行い、研究生を純潔・誠実・菜食主義の生活へと送り出す。研究生は全身全霊で健康のため病と闘わなければならない。また自己の利益のために患者を裏切ってはならない。服装は質素にして強い酒は避けなければならない。冷静さと自己コントロールを保たねばならず、つねに発言は慎重でなければならない。つねに知識と腕を磨かなければならない。患者の家では礼儀正しく謙虚に、患者の利益のみに目を向けなければならない。患者とその家族の情報を漏らしてはならない。患者の治癒が不可能で、患者その他を傷つけるおそれがある場合、これを秘しておかなければならない。 通常の研究生の教育期間は7年である。研究生は卒業の前にテストに合格しなければならなかった。しかし医師(ヴァイディヤ)となっても、文献、直接の観察(プラティヤクシャ)、洞察(アヌマーナ)を通して学び続けなければならない。これに加え、医師の会合で知識を交換する。また、山の民や牧夫、森の民から特別な治療法を集めなければならないとされた。 中世にイスラム勢力が台頭すると、アーユルヴェーダは衰退し、ユナニ医学が隆盛した。
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