アジア・太平洋戦争への前夜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 04:12 UTC 版)
次期内閣には近衛文麿が第2次近衛内閣として組閣、1940年(昭和15年)7月22日に成立した。近衛を中心とする新体制運動が進められ、同年10月には、大政翼賛会が結成されて、既成政党は解党した。この翼賛会は、経済新体制を創出する統制会・大日本産業報国会と並んで政治面で日中戦争(支那事変)および太平洋戦争(大東亜戦争)の遂行を支え、「高度国防国家体制」の創設を目指す大政翼賛運動の推進に当たった。組織原則では、衆議は尽くすが最終的な決定は総裁が下すと言う「衆議統裁」形式が採られた。これは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)とナチス・ドイツの組織原則を真似たものであると言われ、一党独裁の赤である、かつての武家政権・幕府の様に皇室を置物にするものであるという強い批判も出て、精神運動を中心に据えるように変わっていった。歴代総裁には近衛文麿、東條英機、小磯國昭、鈴木貫太郎が就任し、最初は総裁の指名によって事務総長に近衛側近の有馬頼寧(ありまよりやす)が任命され、中央本部に総務・組織・政策・企画・議会の五局および23部が設置された。地方にもこの支部が設けられ、支部長の多くは知事・市町村長が任命され、中央・地方に協力会議が設置された。しかしその部内では主導権争いが頻発し、また、1941年(昭和16年)には平沼騏一郎内務大臣により公事結社とされて政治活動は禁止されて、有馬らの近衛グループが退陣して、内務省および警察主導の行政補助機関となっていった。 1940年(昭和15年)1月にアメリカ合衆国政府は通商条約の破棄など強硬な方策を採った。日本は、ナチス・ドイツや率いるイタリアと1940年(昭和15年)9月に日独伊三国軍事同盟を締結することで対処しようとしたが、アメリカ政府の反発を招くだけだった。その上、南部仏印進駐によってアメリカ政府から石油禁輸を招くに至った。アメリカ・イギリス・中華民国・オランダとの関係がいっそう冷え込み、日本ではそれぞれの国の英語の頭文字をとってABCD包囲網と呼ぶ。 一方、日本では陸軍を中心として対ソ連戦争を目指す北進論と南方に進出することを目標とする南進論との二派があったが、国境線が紛争となっていた張鼓峰とノモンハンでソ連軍と衝突した。これによって北方進出を断念し、日ソ中立条約を締結し北の防衛を強固にするなど対米戦争を準備する一方、外務省は1941年(昭和16年)晩秋まで日米交渉を続け、同年10月18日には第3次近衛内閣が総辞職し、東條内閣(東條英機首相)が成立する。 しかし、軍の強硬姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ナチス・ドイツに対し完全な劣勢であったイギリスや中華民国によるアメリカの参戦の要望、および日本海軍の動きにフランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領が激怒したことによりコーデル・ハル国務長官より中国大陸から撤退すべしとの交渉案(通称ハル・ノート、実際の草稿者はハリー・ホワイト財務次官補)を受ける。これを日清戦争・日露戦争以降に獲得した全植民地からの撤退要求と解釈した日本政府は、事実上の米国政府による最後通牒と認識し、対英米蘭開戦が決定された。日本はこうして第二次世界大戦へ参戦することとなった。アメリカ、イギリスは大西洋憲章を制定し、自陣営を連合国と称し、日本、ドイツ、イタリアの枢軸国と対抗した。
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