アカデミック様式の発展
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「アカデミック美術」の記事における「アカデミック様式の発展」の解説
プッサン派・ルーベンス派論争以来、多くの画家たちがこの2つの様式の間で仕事をした。しかし、19世紀の論争の時は、2つの様式、つまり新古典主義とロマン主義を統合しようという試みがなされた。それを成し遂げた画家として評論家たちが名前を挙げた中には、テオドール・シャセリオー、アリ・シェフェール、フランチェスコ・アイエツ、アレクサンドル=ガブリエル・ドゥカン、トマ・クチュールらがいる[要出典]。後期のアカデミック画家、ウィリアム・アドルフ・ブグローは、良い画家である秘訣は「色と線を同じものとして見ること」とコメントした[要出典]。トマ・クチュールは美術技法について書いた本の中でそれと同じ考えを推奨し、こう主張した。この絵は色がより良い、線がより良いと言うのはナンセンスだ。なぜなら色が素晴らしく見えるのは線がそう見せているからで、逆もまたそうである。実際には、色は形の「色価(value)」について語る方法である。 この時代の進展には、もう一つ、絵に描かれた「時代」を示すための様式、つまり「歴史主義」があった。それを良く表しているのがジェームズ・ティソの影響を受けたジャン・オーギュスト・エンドリック・レイスの作品である。さらにNeo-Grec(新ギリシア)様式の発展もあった。歴史主義は、異なる過去の絵画の伝統の新機軸を結合・調和させるべきとするアカデミック絵画に関連した信念および実践をも指すものだった。 美術界はまた絵画の中の「寓意」に注目しはじめた。線と色の重要性を説くどちらの理論も、画家が寓意を使うことは心理的効果を生む手段を抑制するものの、その中でテーマ・感情・概念が表されるかも知れないと主張した。画家たちは実作の中でそうした理論の統合を試み、寓意的・比喩的な手段として美術作品に特別な注意を払うことを強調した。絵画・彫刻の表現がプラトンの「イデア」を想起させるならば、通常の表現の背後に、抽象的な何か、永遠の真実が垣間見えるはずだと考えた。ジョン・キーツが「美は真実、真実は美」と言ったのはそのためである。絵画は「イデー(idée)」、完全なイデアであるべきと望まれた。ブグローは「ある戦争(a war)」を書くのではなく「戦争(War)」を書きたいと言ったことは有名である。アカデミック画家たちの描いた絵画の多くに「夜明け」「黄昏」「視覚」「味覚」といった寓意的なタイトルがつけられていて、一人の裸体の人物にそれを擬人化し、イデアの本質を明らかにする方法で構成した。 この傾向は写実主義とは反対の観念論に向かうもので、描かれる人物像はより簡潔に、より抽象的になっていった(つまり観念化)。これは自然に見える形を普遍化し、それを作品の全体構成・テーマより下位に置くことを要件とした。 歴史ならびに神話は劇、あるいは概念の弁証法、寓意のための豊かな基盤と見なされ、それらから採られたテーマを使うことは絵画の最も重厚な形だと考えられた。17世紀に始まった「ジャンルのヒエラルキー(英語版)」は、古典的・宗教的・神話的・文学的・寓意的テーマの「歴史画」をその頂点に置き、その下に風俗画、肖像画、静物画、風景画が続いた。歴史画は「grande genre」として知られた。ハンス・マカルトはしばしば実物大より大きな歴史画を描き、19世紀ウィーン文化で圧倒的優位を誇るべく、それを装飾における歴史主義と結合させた。フランスの歴史画を象徴する画家はポール・ドラローシュである。 こうした傾向はすべてが、歴史は最終的に「合(ジンテーゼ)」の中で解決する矛盾した概念の弁証法だとする、哲学者ヘーゲルの理論の影響を受けていた。 19世紀末にかけて、アカデミック絵画はヨーロッパ社交界にたっぷりと浸透した。展覧会が頻繁に開催されたが、その中で最も有名なものはサロン(サロン・ド・パリ)と、1903年スタートのサロン・ドートンヌだった。こうしたサロンは国内国外を問わず大勢の観客が詰めかけるセンセーショナルなイヴェントだった。日曜日一日だけで5万人、2ヶ月の開催で50万人の集客もあった。多数の絵は、現在「サロン・スタイル(Salon style)」と呼ばれている方法で、つまり、天井から目の高さの下まで縦に吊されて展示された。サロンにかかることは画家たちが認められた証で、作品はコレクターたちの間で値が上がった。ブグロー、アレクサンドル・カバネル、ジャン=レオン・ジェロームが美術界で超一流の人物だった。 アカデミック絵画隆盛の時期、それまで評価の低かったロココ時代の絵画がリバイバルし、そこに描かれていたアモールとプシケーといったテーマが再び人気を呼んだ。またアカデミック絵画はその作品の観念性からラファエロをミケランジェロ以上に崇拝した。 アカデミック絵画はヨーロッパやアメリカ合衆国だけでなく、西洋以外の国、とくに、フランス革命を手本として革命を起こし、フランス文化を模倣したラテンアメリカ諸国などにもその影響を広げた。ラテンアメリカのアカデミック画家には、メキシコのアンヘル・サラガなどがいる。
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