『「小説」論 ―『小説神髄』と近代―』
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「亀井秀雄」の記事における「『「小説」論 ―『小説神髄』と近代―』」の解説
『感性の変革』が出版されてのち、亀井は、『北海道大学文学部紀要』に、1989年から1994年までの10回にわたり「『小説神髄』研究」を連載した。そして連載終了から5年後、その内容を3分の1ほどに圧縮し、『「小説」論 ―『小説神髄』と近代―』(岩波書店、1999年)として刊行した。 亀井は同書の中で、『小説神髄』が小説作法書の性格をもつ小説論であることに注目し、坪内逍遙が学生時代に手にした可能性の高い、10数冊の英語圏の修辞書における〈小説〉についての記述や、ジョージ・ルイス、ウォルター・ベザント、ヘンリー・ジェイムズ、アンソニー・トロロープなどの19世紀の実作者の小説作法書とを比較し、逍遥の『小説神髄』のほうがより整備された作法書であったことを指摘している。 当時の英語圏では小説を〈芸術〉として論ずる小説論はまだ書かれておらず、1884年(明治17年)に至って、ウォルター・ベザントが「フィクションの術(アート)」という講演で、はじめて「小説(フィクション)は絵画や彫刻、音楽、詩の諸芸術(アート)と匹敵する芸術(アート)である」と宣言し、それを受けてヘンリー・ジェイムズが「フィクションの術(アート)」という同名のエッセイを発表した。他方、逍遥は、翌年の1885年(明治18年)に『小説神髄』を出版して「小説は美術である」理由を説明した。亀井はこの事実を、これは逍遥が英語圏の小説論の影響を受けたと言うより、世界的な同時現象と見るべきだと考え、なぜこのような〈現象〉が起こりえたのかという問題を立てた。そして、逍遥が取り上げた滝沢馬琴の物語作法論や本居宣長の源氏物語論を、実作の細部と照合しながら分析をした。亀井はその分析を通して、英語圏と日本における〈主人公〉観や、〈筋立て〉(プロットの組み方)などの違いを明らかにし、更にその根底にある歴史や言語、文体などの考え方とその観念水準とを比較することが可能な形で理論化した。 元来比較文学は、外国の文学と自国の文学との影響関係を実証的に明らかにする学問だったが、後には、直接の影響関係が見いだせない場合でも、二つの国の文学に類似なものが認められる場合には比較文学が可能なのではないか、という方向に進んだ。ただ、後者の場合、〈類似〉を認める認め方が恣意に流れやすい。亀井の見方に従えば、「小説=美術」という逍遥の小説観は、英語圏の「小説=芸術」という観念から直接の影響を受けたものではない。その意味で亀井の「世界的同時現象」というとらえ方は、巨視的な文化類型論に属するが、亀井は文化類型論的な発想を退けて、「類似」を認識する仕方の根拠を求め、比較可能な要素を見出すとはどういうことなのかを理論的に追求した。 亀井の研究が出る以前の『小説神髄』研究は、〈逍遥は欧米の進んだ文学に啓発され、影響を受けて日本の物語の改良に取り組んだが、彼の理論と実作はたしてどれだけ欧米の文学に近づくことができたか〉という、型通りの比較文学的研究であった。亀井の『小説神髄』研究は、そのような従来型の研究全体に対する批判である。また、そのために彼は、〈主人公〉や〈内面〉や〈プロット〉等の、小説の基本的な観念の洗い出しに力を傾注した。 亀井の研究の更に注目すべき点は、「ジャンルの植民(または移植)」という新しい観点を作ったことにある。亀井の意見に従えば、〈小説〉というジャンルは決して世界的普遍性を持っているわけではなく、最も進んだ文学ジャンルでもない。それがそのように思われてきたのは、そのジャンルを運んできたのが〈先進国〉の人間であったからであり、そしてその次の段階では、〈後進国〉の中からそのジャンルを〈移植〉しようとする人間が現れる。その点で逍遥『小説神髄』と実作は、世界史的に見ても最も早い「移植」の実践例である。亀井はその点を指摘しながら、その論証過程で、〈近代〉のイデオロギーの担い手としての小説、小説と社会の相互反映(リフレクション)関係などの問題を取り上げ、〈近代〉と〈文学〉研究の新たな課題を提示した。 なお、亀井は、『感性の変革』の頃から、江戸時代と明治以降との関係をプレモダンとモダンという〈歴史〉的枠組みでとらえるとこを止めている。これは亀井がモダンとポストモダンという発想から距離を取ってきたことと関係する。
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