「大多摩ハム」としてGHQの指定工場へとは? わかりやすく解説

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「大多摩ハム」としてGHQの指定工場へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 22:58 UTC 版)

小林栄次」の記事における「「大多摩ハム」としてGHQの指定工場へ」の解説

第二次大戦中彼の工場荏原にあった陸軍航空審査部指定工場となり、軍へ製品納入したまた、軍関係の病院日赤などにも納入した戦争勢い次第増し荏原工場危険になったためにその半分福島県疎開させた。ところが、福島製品県外移出認めなかったため、山形県に移すことになった山形出張していた栄次は、ラジオニュース聞いて急遽帰ってくると、大井町の駅から見渡す限り一望焼け野原となっていた。軍の方から食料寝具衣類国民服などをすぐ支給してくれたももの、もう仕事できないため、彼は家族連れて一度郷里引き揚げたが、家族をそこへ移すと彼だけはすぐ東京へ引き返した横田基地航空審査部訪ね相談して工場再建することにし、基地から2キロ離れた現在の場所に千坪の地所借り入れることができた。そのうち終戦となりアメリカ軍がどんどん入ってきたが、彼は元航空審査部世話材木手に入れ、この場所に三間七間の家を建てることができた。他に、物置作りこの場所をハム工場とする。翌1946年昭和21年一月元旦には、信州疎開先から家が出来上がるのも待ちきれずに家族全員東京へ戻ってきた。彼には9人の子供がおり、老人彼等夫婦子供たち総勢12となった初め近所屠畜場から豚の皮などを買ってきて、ドイツ人仕込み調理法で、煮詰めてゼラチン状したもの水ようかんのように立川新宿闇市で売るなどしていたが、やがて本格的にハム作りだした。その噂を聞いた古いお得意続々都内から毎日商品を買いに来るようになる。そうして、新し名称として土地の名前を取り大多摩ハム小林商会」とした。1947年昭和22年)にこの名称を定め法人組織としたのである終戦後彼の会社の最も特筆すべきことは、彼の工場GHQ指定工場となり、衛生基準合格認証授与されたことであろうGHQ指定工場になったのは、日本でこの工場初めてである(1949年昭和24年8月)。ここは衛生的設備良いため、GHQ衛生局気に入られということだまた、OSSOverseas Supply Store) の許可得たが、これは進駐軍軍人家族相手の、日本流に言えば酒保のようなものだ。GHQ監督は、極めて厳重で毎週厳し検査がある。突然ジープ乗り付けて来ると、事務所工場へは行かず、一番に便所調べる。そして次に、裏へ回ってゴミの処理状況などを調べる。それから後で事務所やってくる、といったやり方であった米軍引き揚げるまでの三年間、GHQ指定工場として、大多摩ハム大きく発展した1962年昭和37年)には、「大多摩ハム」は日本農林規格JAS認定第1号となり、1965年昭和40年5月には、栄次日本ハム・ソーセージ工業協同組合副理事長就任1972年昭和47年)には、無添加ハム・ソーセージを初め開発し販売開始した

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