「大多摩ハム」としてGHQの指定工場へ
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「小林栄次」の記事における「「大多摩ハム」としてGHQの指定工場へ」の解説
第二次大戦中、彼の工場は荏原にあった。陸軍航空審査部の指定工場となり、軍へ製品を納入した。また、軍関係の病院や日赤などにも納入した。戦争の勢いが次第に増し、荏原の工場は危険になったためにその半分を福島県に疎開させた。ところが、福島は製品の県外移出を認めなかったため、山形県に移すことになった。山形へ出張していた栄次は、ラジオのニュースを聞いて急遽帰ってくると、大井町の駅から見渡す限り一望の焼け野原となっていた。軍の方から食料や寝具、衣類や国民服などをすぐ支給してくれたももの、もう仕事はできないため、彼は家族を連れて一度郷里へ引き揚げたが、家族をそこへ移すと彼だけはすぐ東京へ引き返した。横田基地の航空審査部を訪ね、相談して工場を再建することにし、基地から2キロ離れた現在の場所に千坪の地所を借り入れることができた。そのうちに終戦となりアメリカ軍がどんどん入ってきたが、彼は元航空審査部の世話で材木を手に入れ、この場所に三間に七間の家を建てることができた。他に、物置も作りこの場所をハム工場とする。翌1946年(昭和21年)一月元旦には、信州の疎開先から家が出来上がるのも待ちきれずに家族全員が東京へ戻ってきた。彼には9人の子供がおり、老人と彼等夫婦と子供たちと総勢12人となった。 初め、近所の屠畜場から豚の皮などを買ってきて、ドイツ人仕込みの調理法で、煮詰めてゼラチン状にしたものを水ようかんのように立川や新宿の闇市で売るなどしていたが、やがて本格的にハムを作りだした。その噂を聞いた古いお得意が続々と都内から毎日商品を買いに来るようになる。そうして、新しい名称として土地の名前を取り「大多摩ハム小林商会」とした。1947年(昭和22年)にこの名称を定め、法人組織としたのである。終戦後の彼の会社の最も特筆すべきことは、彼の工場がGHQの指定工場となり、衛生基準合格認証を授与されたことであろう。GHQの指定工場になったのは、日本でこの工場が初めてである(1949年(昭和24年)8月)。ここは衛生的で設備が良いため、GHQの衛生局に気に入られたということだ。また、OSS(Overseas Supply Store) の許可も得たが、これは進駐軍の軍人や家族相手の、日本流に言えば酒保のようなものだ。GHQの監督は、極めて厳重で毎週厳しい検査がある。突然ジープで乗り付けて来ると、事務所や工場へは行かず、一番に便所を調べる。そして次に、裏へ回ってゴミの処理状況などを調べる。それから後で事務所へやってくる、といったやり方であった。米軍が引き揚げるまでの三年間、GHQの指定工場として、大多摩ハムは大きく発展した。 1962年(昭和37年)には、「大多摩ハム」は日本農林規格(JAS)認定第1号となり、1965年(昭和40年)5月には、栄次は日本ハム・ソーセージ工業協同組合副理事長に就任。1972年(昭和47年)には、無添加ハム・ソーセージを初めて開発し、販売を開始した。
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