「大太郎」の来園と新カバ室への引っ越し
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「京子」の記事における「「大太郎」の来園と新カバ室への引っ越し」の解説
1927年(昭和2年)、新しいカバが上野動物園に来園することになった。飼育係の高橋峯吉は、京子の「お婿さん」になるオスカバが来るという知らせを聞いて「そりゃあよかったですね。ハーゲンベックからですか」と黒川に質問している。高橋のこの質問について『物語 上野動物園の歴史』の著者、小宮輝之(元上野動物園園長)は、「ハーゲンベックの名が出たのは、カバの将来のために京子との血縁のないオスを迎えたいという気持ちが思わず言葉に出たものであろう」と推測している。しかし、来園が決まったのは京子と同じく昌慶苑動物園生まれで、1925年(大正14年)5月生まれの京子の弟にあたる個体であった。京子のときには同じ宮内省所管の動物園ということで輸送料などの実費を除いて無償譲渡のかたちであったが、今回については上野動物園がすでに東京市の所管となっていたため、李王職から1頭7,000円で購入することになった。 1927年(昭和2年)8月9日、東京市の主任技師となっていた黒川は飼育係の高橋とともに東京から京城に出張した。8月14日に内法で長さ7尺4寸、高さ4尺、幅3尺(約220×120×90センチメートル)の輸送箱をカバ舎に据え付けて馴らし始め、22日に子カバを輸送箱内に収容し、25日に昌慶苑動物園を出発して南大門駅で貨車に積み込み、翌日釜山に到着した。釜山で関釜連絡船「昌慶丸」の甲板に積み込み、27日の朝に下関港に到着した。下関からは急行貨物列車で27日午後10時45分に出発し、4日目の30日午前0時20分に東京の汐留駅に到着した。当時の下関で鉄道省の責任者として業務にあたったのは、後に総理大臣となる佐藤栄作であった。佐藤はカバの付添人の便利を考慮して荷物室に車掌室が付属した貨物緩急車を準備し、夏場で水を大量に必要とするカバの輸送のために、水桶2個を一緒に積み込んだ上で途中停車する13の駅では給水の準備を指示するという用意周到で行き届いた配慮を見せている。 上野動物園に到着したカバは、当時の京子に比べてあまりにも小さかったので、最初のうち「小僧」と呼ばれていた。しかし「小僧」の成長はめざましく、やがて京子よりも大きくなったため名を「大太郎」と改めた。 1929年(昭和4年)、新しいカバ室が完成した。新しいカバ室のプールは広く深く設計され、広い運動場が左右に2部屋設置されてカバの妊娠や分娩の際にはメスとオスが分離できるように配慮されていた。5月19日に一度引っ越しを試みたものの、京子が怖気づいて暴れたため、中止せざるを得ず、しかも5月31日には初めての子を流産していた。7月と8月に改めて行われた京子と大太郎の新カバ室への引っ越しの指揮は、病気がちになっていた黒川に代わって前年に動物園に入ったばかりの古賀忠道が執った。2回目の引っ越しの際も京子は暴れたが、何とか新しいカバ室に移すことができた 。ようやくのことで新しいカバ室に着いた京子は暴れすぎた反動でへたり込み、プールに入ったままで2週間もの間新設された運動場に出ることがなかった。それに比べて大太郎の引っ越しは何の苦労もなく、作業にあたった人々が拍子抜けするほどであった。後に高橋は自著『動物たちと五十年』に「やっぱり、オスは度胸がいいんだね、と私たちは語りあった」と記述している。
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