「世紀末」の舞台
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 10:17 UTC 版)
1880年代のヨーロッパは、ヴィクトリア女王治下の大英帝国、植民地拡大政策をとって一定の成果を収めたフランス、鉄血宰相ビスマルクの指導下で一大勢力となったドイツ帝国、リソルジメント成ったイタリア王国など、対外的にみればいずれも国力の頂点に達していた。 ドイツとイタリア統一のあおりをくらって両国との戦争に敗北、永年の盟友だった帝政ロシアとも東方問題で対立し、さらに諸民族の自立要求と抵抗にも悩まされていたオーストリア=ハンガリー二重帝国にしても、1880年代は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と、ハンガリーの文化と風土をこよなく愛したエリーザベト皇后のもとで小康状態を保っていた。 こうしたなか、欧米では第二次産業革命とよばれる動きがイギリスのみならず各地で展開していた。物理学・化学・生物学・医学などの自然科学分野で現代につながる重要な発見が続き、汽車や汽船、自動車の改良や動力飛行機の登場、電信・電話の実用化、ディーゼル機関の登場、写真や電球・蓄音機の発明、印刷技術の発達など、おびただしい発明や発見があいついだ。1859年に機械掘りによる原油掘削が成功したのちは「黒いゴールドラッシュ」の時代を迎え、「石油と電力」を基軸とする技術革新は、鉄鋼・電気・化学工業のめざましい発展をもたらした。こうして飛躍的な成長を遂げた技術力と産業力にささえられて、各国が大胆な首都改造に乗り出すとともに、都市は急速に膨張し、社会はめざましい変化にさらされていた。 人々が語らう場も、かつては上流階級に限定されていたサロンがあったが、新興のブルジョワ階級は政治談義の場所などとしてカフェを好み、19世紀中ごろにはサロンに入れない芸術家たちの集まる場所という性格が強くなって、新しい芸術家たちの誕生を促した。さらに、ルノワールが1876年のモンマルトルの踊り場を描いた『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』では、正式な舞踏会に行くことのできない庶民が広場で気軽に踊りを楽しんだ様子が描かれている。そしてまた、こうした大衆の政治や文化への参加は、上記の技術革新と相俟ってマスメディアの発達を促したのであった。 このような情況のなかで、一方では依然として人間と社会の進歩・発展を信じる楽天主義や進歩主義も広く、そして根強く存在したが、その一方では、滅びの予感と人間文明に対するペシミスティックな懐疑、科学万能主義に対する反感、通俗的なブルジョワ的生活への嫌悪、官能的陶酔への傾きなどの心性も現れていたのである。その典型として、ジョリス=カルル・ユイスマンスの小説『さかしま』に登場する主人公のような人間像が掲げられる。 この時期はまた、デイヴィッド・リヴィングストンやヘンリー・モートン・スタンリーのアフリカ探検、スヴェン・ヘディンの中央アジア・チベット旅行、さらには同時期の極地探検などにみられるように未知の世界への冒険が始まった時代でもあった。これは、帝国主義時代の本格的な到来と相補的な動きととらえることができるが、芸術についていえば、ヨーロッパの人々に対し、野生の世界や東洋世界への絶え間ない好奇と関心をもたらすできごとでもあった。 これら19世紀後半の一連の動向は、90年代の新しい芸術の創造を試みる諸活動を産む契機ともなっていった。
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