バブル時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/05 14:44 UTC 版)
娯楽・消費
バブル時代には、「クリスマスは大学生が高級ホテルのスイートルームでパーティ」「赤坂・六本木では一万円札を振りかざさないとタクシーが拾えない」といった事象が起きた。
海外旅行
格安航空券の流通拡大にあわせて、日本人の海外旅行者が増加したのもこの時期からである。1986年には、550万人程度だった日本の海外旅行者が、わずか4年後の1990年には、1000万人を突破した。
家庭用ゲーム機
家庭用ゲーム機業界においても、一大ブームを起こしたファミコンの(任天堂)次世代を担う次世代機の競争が各社で始まっていたが、なかでもNECホームエレクトロニクスが開発したPCエンジンの周辺機器で、当時最新鋭だったCD-ROM2システムや、セガが開発したメガドライブの周辺機器であるメガCDが組み込ませた製品が4-5万円で発売されるなど、ゲームにおいても高級志向が浸透しつつあった。1990年にSNKからリリースされたNEOGEOのように、高級ゲームの市場を開拓すべく発売されたゲーム機もある。
スーパーファミコン(任天堂)のソフトの価格が、一部を除き8,000円~10,000円台であったことも、当時の好景気を象徴している。
ポケットベル
1987年から、ポケットベル(ポケベル)での数字送信が可能になり、通信自由化による新規参入事業者との競争で低料金化、事業者参入要件の緩和や技術革新による高速化などが追い風となり、ごく一部の若者の間でポケベルが普及し始めた。
日本でのポケベル事業自体は1968年に開始されていたが、音響通知だけで業務用途が多く、一般レベルでは普及していなかった。ポケベルが個人の生活に入り込むことで(業務用途の自動車電話・携帯電話、1989年に普及し始めたノートPCなどを除いては)、固定電話と公衆電話が主たる通信手段の時代から、個人で通信手段を持ち歩くのが当たり前の時代へと移り変わる流れを作った。
1990年代に入ると高校生-20代前半の一部の若者の間で、数字の語呂合わせでメッセージを送り合う言葉遊びが流行り、恋人同士でも連絡し合うようになったが、ポケベルがブームになるのは、バブル崩壊後となる。
クリスマス・ホテル
バレンタインデーにチョコを贈る慣行は、オイルショックによる景気低迷の時代に、百貨店業界がより積極的に仕掛けたように、クリスマス・イヴにカップルで夜景の見える高級レストランで食事・デートし、高級ホテルに宿泊するというスタイルは、円高不況期にホテル・外食産業やマスメディアなどによって仕掛けられた。
赤坂プリンスホテルやシェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテル、東京ベイヒルトンなどの高級シティホテルに宿泊することが流行し、3か月前の予約受付開始直後に12月24日の予約が一杯になる状況が続いた。
スキーリゾート
また前述の通り、スキー場の開発が相次いでなされたことと、1987年に映画『私をスキーに連れてって』が大ヒットしたこともあって、スキーブームが起こり、苗場プリンスホテルなどが人気となり、リフト待ちに数時間かかるような事態も起きるほどであった。
さらに、東京都心から近い千葉県船橋市に開業した屋内スキー場「ザウス」のオープンはバブル崩壊後の1993年であるが、スキー人口のピークの年でもあった。
音楽市場
楽器メーカーでは、ヤマハがスキーブームに便乗して「スキーバスの中に持ち込んで手軽に作曲が楽しめるもの」をコンセプトに設計された、音源内蔵シーケンサーQY10を開発している。
また、テレビ番組『三宅裕司のいかすバンド天国』(TBS)が人気を獲得し発生した「バンドブーム」の流れに乗り、ギターやシンセサイザーをバンド系ミュージシャンとのタイアップやCM放送を通じて盛んに売り出した[10]。
豪華列車
鉄道についても、従来では考えられなかった超豪華列車(「北斗星」「トワイライトエクスプレス」等、またオリエント急行の来日もこの時期)や、リゾートに特化した車両(「スーパービュー踊り子」等)、大手私鉄では新鋭の特急系車両(例として、東武「スペーシア」を肇めに小田急ロマンスカーHiSEとRSEや名鉄「パノラマSuper」、近鉄「アーバンライナー」、京阪8000系など)が登場し、これらの列車はバブル崩壊後も根強い人気を保っている[11]。
歓楽街・ディスコ
消費の過熱は、六本木や銀座、新宿、渋谷などの歓楽街にも影響し、大金を手にしたいわゆる「バブル紳士」から、学生ビジネスのみならず、アルバイトで遊ぶための金を手にした学生までが大金をつぎ込んだ。
1980年代後半にかけて、六本木では雑居ビル「スクエアビル」の殆どがディスコになった他、六本木駅界隈には、50店舗以上もディスコが乱立し、その多くが盛況になるなど、第2次ディスコ・ブームが起こった。ディスコ以外にもカフェバーやカラオケパブが流行するなどし、この頃のバブル景気の象徴として「ジュリアナ東京」や「マハラジャ」が取り上げられることが多い[12]。
また、都心や歓楽街の地価高騰に伴い、地価・家賃が比較的安価だった再開発前のお台場等の湾岸線に存在した倉庫や工場跡を改装・リメイクしてディスコやライブハウスとしてオープンさせるウォーターフロントブームが発生。MZA有明などがその先駆けとなった。
学生ビジネスなどが発達し、裕福な大学生を中心に組織されたイベント系サークルが、これらのディスコを数十店舗単位で同時に貸し切り、ミズノや日産自動車、スバルやサントリーなどの大企業のスポンサーを付けた上で、全国規模で数千人を動員するパーティーも行われた。
モータースポーツブーム
世間がバブルに沸く中、1987年の中嶋悟のF1レギュラー参戦とホンダエンジンの活躍、フジテレビによるF1全戦中継開始を機に、モータースポーツブームが巻き起こった。
F1
F1を中心とした空前のモータースポーツブームに、宣伝効果を狙った様々な企業が群がった。フットワーク(アロウズを買収)やレイトンハウス(マーチを買収)、エスポ(ラルースを買収)、ミドルブリッジ(ブラバムを買収)など多くの日本企業がF1チームの買収を行い、参戦。また、三洋電機や東芝、セイコーエプソン、三越、セガなどの多くの日本企業がチームのスポンサーに名乗りを上げた。
さらにヤマハ(ザクスピードに1989年から供給)やスバル(コローニに1991年に供給)がエンジンサプライヤーとして参戦したほか、1988年からは中嶋悟に続き、鈴木亜久里が日本企業のスポンサーを受けて1995年までレギュラー参戦した。
海外レース
F1のみならず、ル・マン24時間レースやパリ・ダカールラリーをはじめとする世界各国のレースに参加する日本の自動車会社や日本人レーシングドライバーに対し、大企業から中小企業まで様々な日本企業がスポンサーを行った。
国内レース
また、当時日本国内のモータースポーツのトップカテゴリーだった、全日本F3000選手権や全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権 (JSPC)・全日本ツーリングカー選手権 (JTC) 等には、サントリーや日本たばこ、ミノルタ、ワコールなどの大手企業から、CHERENA、三和都市開発、VIPバケーションなど、不動産取引で大金を手にした不動産業者をはじめとする中小企業、さらに武富士、プロミス、アコムなどの消費者金融業者まで、多くの企業がスポンサーに名乗りを上げ、豊富な資金を得たことを背景に、1990年の全日本F3000選手権には、40台近くがエントリーするなど空前の参戦台数を記録した。
さらに、不動産投機を目的としたリゾート開発の過熱とあわせて、国内におけるサーキットの建設計画が多数立ち上がり、実際に計画され完成に至っただけでも、オートポリス、TIサーキット英田、十勝インターナショナルスピードウェイなどがあるが、上記の3つともにバブル崩壊後に運営法人が破産した。
高級車ブーム
バブル経済の時代、ベンツや日産のシーマなど高級消費ブームに沸いた[13]。
日本車
1988年1月、日産自動車が発売した500万円以上の高級車「シーマ」が大ヒットを記録、日本銀行の支店長会議では、日本の豊かさを表しているとしてこの事例を「シーマ現象」と名付けた[14]。
この頃、シーマのほかトヨタ・ソアラやクラウンなどの「ハイソカー」と呼ばれる3ナンバーの国産高級車への人気集中が起きた。とくに1989年に税制改正され、3ナンバー車に以前のような重課税がなされなくなってからは、各メーカーがこぞって対象車種を発売したことから、これらの3ナンバー車の販売台数が飛躍的に増加した。
また、1989年にアメリカで先行販売されたトヨタ・セルシオやインフィニティ・Q45などを、日本での販売開始前にアメリカから逆輸入して高値で販売する業者や、1990年に発売され納車まで1年以上を要していたホンダ・NSXを「即納可能」として、高値で転売する業者も現れた。
輸入車
大都市の道路でメルセデス・ベンツ・Sクラスやポルシェ・911、ジャガー・XJなどの高級輸入車が走る姿が日常の光景の一部となり、フェラーリやランボルギーニ、マセラティやロールス・ロイスなど、それまで輸入台数が極端に少なかった高級車が特に珍しい存在ではなくなったのはこの頃のことである。
またこの当時、ヤナセ(メルセデス・ベンツ)やBMWジャパン(BMW)などの正規輸入販売代理店経由でこれらの車を購入する場合、車種によっては注文してから納車されるまで1年以上かかるケースがあったため、輸入車専門店がドイツやアメリカ、ドバイなどから新車(時には中古車)を並行輸入し、「即納可能」として正規輸入販売代理店の販売価格に上乗せしたプレミア価格で販売し、その広告を全国紙に掲載しているケースもあった。
BMWとメルセデス・ベンツ
富裕層のステータスシンボルとされていたBMWも、バブル期の六本木では多く見られた。とりわけBMWの中でもコンパクトな3シリーズ(E30型)は、国産の大衆車であるトヨタ・カローラになぞらえて「六本木カローラ」などと呼ばれるほどに普及した。
メルセデス・ベンツ・190Eも同様の理由から多く見られ、「小(こ)ベンツ」「赤坂サニー」などと呼ばれた。
フェラーリ
この頃フェラーリは、1988年に創設者のエンツォ・フェラーリが死去したことや、同時期にヨーロッパの自動車バイヤーによって中古販売価格を吊り上げるために買い占めが行われたこともあり、新車のみならず中古車価格も世界的に高騰していた。
このような世界的な供給不足を受けて、人気車種のテスタロッサを当時の正規輸入販売代理店のコーンズ・アンド・カンパニー・リミテッドで新車で注文した場合、納車されるまで2 - 3年を要するという状況であった。
そのため、限定で生産されたF40は、コーンズ・アンド・カンパニー・リミテッドでの新車価格が4,650万円のところを並行輸入された新車(即納可能)が輸入車専門店で2億5,000万円で、テスタロッサが新車価格が2,300万円のところを5,000万円近くで、348が新車価格が1,650万円のところを4,500万円近くで販売されていたという記録が残っている[15]。
ロールス・ロイス
バブル景気絶頂期の1990年には、ロールス・ロイスの全生産台数の約3分の1強が日本で販売された。その後、バブル崩壊によってそれらの車両はオーナーの手から離れたために、日本におけるロールス・ロイスの中古車市場は大暴落し、その多くが1990年代中盤に海外の自動車バイヤーに買い取られていった。
ポルシェ
1986年に発表され、1987年に日本国内でも発売された限定車の959が、当時の正規輸入販売代理店のミツワ自動車からは数台しか輸入されない(総生産台数は当初200台とされていた)というその希少性から並行輸入車が高値で取引され、1億円近い価格をつけるものも存在した。
セゾン文化
バブル期は、堤清二が率いるセゾングループが、セゾン文化と呼ばれる消費文化を牽引した。当時、大人は西武で、若者はパルコで買い物をするのが一種のステイタスになっていた。グループ内の西武百貨店やパルコのほかには、セゾン美術館、銀座セゾン劇場、パルコ劇場、ロフト、無印良品、アール・ヴィヴァンなどがあり、単にモノを売るだけではなく、文化やイメージを売るというスタイルは「イメージ戦略」と呼ばれ、当時は斬新とされた。渋谷公園通りがオシャレで、この通りに近い西武やパルコは、当時の修学旅行生の観光地にもなっていた。
シブヤ西武(後の西武渋谷店)SEED館には伝説のショップ『カプセル』を設置し、デビュー間もない川久保玲(コム・デ・ギャルソン)、山本寛斎、イッセイミヤケ、タケオキクチら、新進のデザイナーズブランドを展示した。糸井重里の「じぶん、新発見。」「不思議大好き。」「おいしい生活。」などのキャッチコピーや、ハドソン川を内田裕也がスーツ姿で泳ぐバージョンなど、パルコの斬新なCMはしばしば話題になった。ただし、「カプセル」がオープンしたのは1970年、糸井重里のキャッチコピーはは1981〜1983年、内田裕也のCMは1985年で、いずれもバブル景気以前のことである。石岡瑛子、長沢岳夫などを起用した、インパクトのあるイメージと挑発的なコピーのポスター・CMの多くも1970年代〜1980年代前半のものである。美術館、劇場、出版事業等も1970年代から手がけており、堤清二はセゾングループの文化戦略のピークは1975年〜1982年頃だと語っている[16]。バブル期のセゾン文化はラディカルなものではなくなっていた。
2014年現在、六本木ヒルズメトロハットがある場所には、CD・レコード専門店「WAVE」があり、コンテンポラリー・アートと音楽の店で、青山ブックセンターと並び称された「アール・ヴィヴァン」と共に、若者や文化人に定評だった。また過剰なまでに消費が旺盛だったバブル期にあって、過剰な意味や装飾性を削ぎ落した「無印良品」は、却って新鮮だった。元は同じグループだった、西武鉄道グループのプリンスホテルやスキーリゾート、そして「としまえん」のCMも脚光を浴びた。
一方、セゾンのライバルだった東急グループでは、東急ハンズが脚光を浴びた。
- ^ 日本経済新聞社編 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、78頁。
- ^ 日本経済新聞社編 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、148頁。
- ^ 携帯電話は当時高価格なこともあって殆ど普及しておらず、まともな収入がない学生が手にすることは不可能であった。
- ^ 当時は大学生だけでなく高校生もバブル景気の影響を受けて就職は容易であり、高校新卒者の求人倍率は1992年に3.34倍と高度経済成長期に次ぐ高い値を記録している。
- ^ 小峰隆夫 『ビジュアル 日本経済の基本』 日本経済新聞社・第4版〈日経文庫ビジュアル〉、2010年、56頁。
- ^ 田中秀臣『日本経済復活が引き起こすAKB48の終焉』主婦の友社、2013年、91頁。ISBN 978-4-07-289414-9。
- ^ アベノミクスに要注意! バブル時代の貧乏人の扱いがヒドすぎる!ダ・ヴィンチニュース 2013年5月17日
- ^ 1986年に遺書を残して生徒が自殺した中野富士見中学いじめ自殺事件が起きた。葬式ごっこを行い教師3人も色紙に寄せ書きしていたことから、メディアが注目した最初のいじめ自殺事件になった。
- ^ 『「まじめ」の崩壊―平成日本の若者たち』(サイマル出版会、1991年)Template:Date=2014年4月。
- ^ TM NETWORKの小室哲哉がプロデュースしたヤマハ・EOSシリーズ、プリンセス・プリンセスの今野登茂子がCMキャラクターを務めたD-5など。
- ^ 小田急HiSE・RSEに代表されるハイデッカー構造が流行した。
- ^ ただしジュリアナ東京が開店したのは1991年5月であり、すでにバブル崩壊が始まっていた時期にあたる。バブル時代を象徴するディスコは1989年11月オープンの芝浦ゴールドと、その頃の高級ディスコブームを牽引していたマハラジャだった。
- ^ 伊藤修 『日本の経済-歴史・現状・論点』 中央公論新社〈中公新書〉、2007年、123頁。
- ^ 日本経済新聞社編 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、70頁。
- ^ 『フェラーリを1000台売った男』榎本修・著 清水草一・編 ロコモーションパブリッシング刊
- ^ 辻井喬、上野千鶴子『ポスト消費社会のゆくえ』文春新書、文藝春秋、2008年 ISBN 9784166606337
- ^ プラザ合意と円高、バブル景気 財務省広報誌「ファイナンス」2011年10月[リンク切れ]
- ^ バブル景気の痕跡をたどる週刊朝日連載。ジュリアナ東京、ボジョレ・ヌーボー、アッシーくん、ゴルフ会員権、地上げ、1億円ふるさと創生交付金、チバリーヒルズ、ボディコン、私をスキーに連れてって、企業メセナ、宮崎シーガイア、「ゴッホのひまわり」、CIブーム、E電、ハウステンボス、テーマパーク、ホンダ・NSX、地方博ブーム、エンパイア・ステート・ビルディング&ロックフェラーセンター買収など、ティファニーを贈るのやクリスマスはカップルですごすものとかこの時期に限定メニューがある、という習慣もこの頃始まったのが分かる。
- バブル時代のページへのリンク