四天王寺 歴史

四天王寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/03 00:21 UTC 版)

歴史

七星剣

『日本書紀』に見る創建の経緯

創建時の四天王寺伽藍模型(大阪府立近つ飛鳥博物館展示)。南から北へ(この画像では右から左へ)中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に配置するのが特色。

四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである[3][4]。 四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。

用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(現・大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の像を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。

以上が『書紀』の記載のあらましである。聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方一円に多数あるが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは四天王寺と法隆寺のみで、その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当である。

『書紀』の推古元年是歳条には「是歳、始めて四天王寺を難波の荒陵に造る」とあって、「是歳」が造営の開始を意味するものか完成を意味するものか定かでなく、めでたい「元年」を造営の年にしたものとも考えられている[5]。ただし、四天王寺が推古朝にはすでに存在したことは考古学的にも確認されている。前期難波宮難波長柄豊碕宮、現・大阪市中央区法円坂)の下層遺構から瓦が出土するが、この時代の日本において瓦葺きの建物は仏教寺院のみであり、これらの瓦は四天王寺の創建瓦と見なされている。したがって、孝徳天皇が前期難波宮に遷った7世紀半ば以前の推古朝にすでに四天王寺がこの地に存在したことが分かる。四天王寺の創建瓦の中には、斑鳩寺(法隆寺)のいわゆる若草伽藍(現存する法隆寺西院伽藍の建立以前に存在した創建法隆寺の伽藍)の出土瓦と同笵の軒丸瓦がある。若草伽藍と四天王寺の同笵瓦を比較すると、前者の文様がシャープであるのに対し、後者は瓦当笵に傷が見られる。このことから、若草伽藍の造営が先行し、同伽藍の造営が落ち着いたところで、瓦当笵が四天王寺造営の工房へ移動したことが分かる[6]

四天王寺の伽藍配置は中門、塔、金堂、講堂を南から北へ一直線に配置する「四天王寺式伽藍配置」であり、法隆寺西院伽藍(7世紀の焼失後、8世紀初め頃の再建とするのが定説)の前身である若草伽藍の伽藍配置もまた四天王寺式であったことはよく知られる。

創建に関わる異説

四天王寺縁起(後醍醐天皇宸翰本 巻頭と巻末)

当初の四天王寺は現在地ではなく、上町台地の北部に位置する玉造JR森ノ宮駅付近)の岸上にあり、推古天皇元年(593年)から現在地で本格的な伽藍造立が始まったという解釈もある(鵲森宮の社伝では、隣接する森之宮公園の位置に「元四天王寺」があったとするが、鵲森宮が元四天王寺の存在を示す根拠に挙げる「難波古絵図」には、石山(現・大阪城本丸)の東隣に「天王寺跡」が描かれており、天王寺跡と接する東の河川が現在の大阪城東外堀であることから「元天王寺」は現在の大阪城二の丸梅林付近に存在したこととなり社伝と矛盾している)。また、建立の動機も、丁未の乱で敗死した物部守屋とその一族の霊を鎮めるため、とりあえず守屋の最後の拠点の玉造の難波邸宅跡(元大阪樟蔭女子大教授今井啓一は鵲森宮が難波の守屋の宅跡と推測する[7])に御堂を営んだ6年後、荒陵の地に本格的な伽藍建築が造営されたのだとされる。現在四天王寺には守屋祠(聖徳太子の月命日22日に公開。物部守屋、弓削小連、中臣勝海を祀る)があり、寺の伝説には守屋が四天王寺をキツツキになって荒らしまわり、それを聖徳太子が白鷹となって退治したとの縁起が残っており[8]守屋らの社を見下ろす伽藍の欄干に太子の鷹の止まり木が設置されているなどから、御陵社の意味合いを推察する向きもある。

山号の「荒陵山」から、かつてこの近くに大規模な古墳があり、四天王寺を造営する際それを壊したのではないかという説もある。四天王寺の庭園の石橋には古墳の石棺が利用されていることはその傍証とされている。例えば、大阪市住吉区にある帝塚山古墳は、「大帝塚山」、「小帝塚山」と地元で称されているものがあり、現在一般的に帝塚山古墳と呼ばれているのは「大帝塚山」である。その大帝塚山は、別名荒陵とも呼ばれていた。なお、小帝塚山は、住吉中学校の敷地内にあったといわれている。また、東高津宮は、仁徳天皇皇居であるとする1898年明治31年)の大阪府の調査報告などがあることから、歴代天皇のいずれかの皇居であったのではないかという説もある。

現在の大阪市東淀川区豊里の東部は、元は西成郡天王寺庄村といった。四天王寺の建立予定地であったという伝承による。なお、8世紀の西成郡と隣接する東生郡郡領は、吉士系で占められていたとする推察がある[9]

20世紀末から「日本仏教興隆の祖としての『聖徳太子』は虚構であった」とする言説が盛んになり、『書紀』の記述に疑問を呈する向きもある[10]。また、上記の『書紀』批判の記述とは別に、孝徳朝創建説[11]阿倍氏創建説[12]、難波吉士氏寺説[13]があり、加藤謙吉は孝徳朝以降の造営事業は「少なくとも四天王寺を豪族の私寺的なものとみることはできない[14]」とする。

四天王寺七宮

四天王寺七宮(してんのうじしちみや)は、聖徳太子が四天王寺を創建した際に、その外護として近辺に造営された神社群である。大江神社上之宮神社、小儀神社、久保神社、土塔神社、河堀稲生神社堀越神社の7つで、これらの神社を産土神とする7つの集落が東成郡天王寺村となった。

四箇院

伝承によれば、聖徳太子は四天王寺に「四箇院」(しかいん)を設置したという。四箇院とは、敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つである。敬田院は寺院そのものであり、施薬院と療病院は現代の薬草園および薬局病院に近く、悲田院は病者や身寄りのない老人などのための今日でいう社会福祉施設である。施薬院、療病院、悲田院は少なくとも鎌倉時代には実際に寺内に存在していたことが知られる。

施薬院は、後に聖徳太子が『勝鬘経』を講じた地だとする伝承があり、勝鬘院(愛染堂)が故地と伝えられている。

平安時代

法隆寺が飛鳥時代奈良時代にさかのぼる建築や美術工芸品を多数残すのに対し、四天王寺は度重なる災害のため、古い建物はことごとく失われている。早くも平安時代承和3年(836年)には落雷で初代五重塔が破損し、天徳4年(960年)には火災によって全山焼失している。

聖徳太子は日本仏教の祖として、宗派や時代を問わず広く信仰されてきた。太子の創建にかかる四天王寺は、平安時代以降、太子信仰のメッカとなった。また、四天王寺の西門が西方極楽浄土の東門(入口)であるという信仰から、浄土信仰の寺としての性格も加えていった。太陽の沈む「西」は死者の赴く先、すなわち極楽浄土のある方角と信じられ、四天王寺の西門は西方の海に沈む夕陽を拝する聖地として、多くの信者を集めた。現在も寺に伝わり国宝に指定されている『四天王寺縁起』は、こうした信仰を広めるのに大いに力があった。『四天王寺縁起』は伝承では聖徳太子の自筆とされ、寛弘4年(1007年)、金堂内で発見されたとするが、実際には後世の仮託で、発見時からさほど隔たらない平安時代中期の書写とするのが通説である。既述の「四箇院」のこともこの「縁起」に見えるものである。

院政期の上皇法皇は四天王寺にしばしば参詣した。後醍醐天皇は上述の『四天王寺縁起』を自筆で筆写し、巻末に手印を捺している。これは「後醍醐天皇宸翰(しんかん)本縁起」として現存し、国宝に指定されている。平安から鎌倉時代の新仏教の開祖である天台宗最澄真言宗空海融通念仏良忍浄土宗法然浄土真宗親鸞時宗一遍などが四天王寺に参篭したことも知られている。

鎌倉時代以降

室戸台風で倒壊した6代目五重塔

康安元年(1361年)には金堂が地震で倒壊し、後に復興したが、応仁の乱の際には大内政弘によって放火されている。

天正4年(1576年)5月3日には織田信長による大坂本願寺攻め、いわゆる石山合戦のうちの天王寺の戦いにより、天王寺砦(現・天王寺区生玉寺町)に駐屯する織田軍に火を掛けられて全焼している。その上、寺領を全て没収された。

天正12年(1584年)には金堂が再建され、復興の足掛かりとなった。文禄3年(1594年)から豊臣秀吉によって復興が行われると、単層の金堂が重層に改築され、その他の堂舎も再建された。慶長5年(1600年)には豊臣秀頼によって大和国額安寺から五重塔が移築され、4代目の五重塔としている。また、庚申堂なども再建されている。翌慶長6年(1601年)10月には秀頼によって千石が寄進されている。

しかし、慶長19年(1614年)に大坂冬の陣に巻き込まれ、11月6日に豊臣方によって放火された町の火が飛び火して全焼してしまった。

だが、徳川家康が復興に乗り出すと、その死後は息子の徳川秀忠により再建事業が進められ、元和3年(1617年)に準備に入ると元和4年(1618年)9月に釿始めが行われて本格的に再建が始められた。片桐貞隆赤井忠泰甲斐庄正房、小沢休務の4名が普請奉行に任じられている。こうして5代目五重塔や伽藍が復興され、その他の堂も江戸幕府の援助で再建されて元和9年(1623年)9月21日ようやく完成を見たが、享和元年(1801年)12月5日の落雷で五重塔や金堂を始めとして境内の東半分が焼失した。

大坂白銀町の町人淡路屋太郎兵衛が中心となって文化10年(1813年)に6代目五重塔や伽藍が再建された。しかし、文久3年(1863年)に聖霊院が焼失している。

明治時代以降

明治時代になると神仏分離が行われ、四天王寺の鎮守社であった安居神社が分離・独立した。また、南大門の脇にあった十五社が和光堂という仏堂に改められている。廃仏毀釈も進められ廃絶する子院も出るなか、1871年(明治4年)に主要伽藍以外の境内地が上知令で国有化され、1873年(明治6年)に公園化されて新たに桜が植えられた。そんな中でも1879年(明治12年)には聖霊院が再建されている。

1901年(明治34年)5月31日には公園地から解除され普通の国有地に変更されたため、これ以上の公園化は食い止められた。

文化10年(1813年)に再建された伽藍は昭和期まで残っていたが、1934年(昭和9年)9月21日の室戸台風でまず中門が倒壊し、そのために五重塔が強烈な風をまともに受ける形となった[15]。これによって当時は展望台ともなっていた6代目五重塔は金堂に倒れ掛かるようにして倒壊し、金堂も大被害を受けた。逃げ遅れた参詣者など15人が犠牲となっている。

7代目五重塔は1940年(昭和15年)5月22日に再建された。内部の壁画と柱絵は堂本印象により描かれ、屋根は銅瓦葺きであった。

しかし、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月13日・14日に行われた第1回大阪大空襲で国宝の東大門や庚申堂の他、中心伽藍もろとも五重塔は焼失した。7代目五重塔はわずか5年の命であった。

1946年(昭和21年)に天台宗から独立して和宗を創設し、総本山となった。1948年(昭和23年)には国有地となっていた境内地が四天王寺に譲与されている。

1950年(昭和25年)9月3日、ジェーン台風により新たな金堂が崩壊する。逃げ遅れた参詣者2人が下敷きとなり1人が死亡している。この金堂は、18世紀に六時堂の北に建築された食堂を戦後に移築したものであった。収蔵されていた仏像は無傷のまま回収された[16]

現存の中心伽藍は1957年(昭和32年)から再建にかかり1963年(昭和38年)に完成したもので、五重塔はこれで8代目となる。鉄筋コンクリート造であるが、飛鳥建築の様式を再現したものである。

1972年(昭和47年)6月23日、祈祷所「萬燈院」が火災に遭う。建物は椎寺にあった薬師堂を戦後に移築したもの。建物内にあった十一面観音像などは消火の放水で濡れたものの無事[17]

2020年令和2年)4月8日、大阪市が新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、閉鎖を決めた。期間は6月8日までである。同寺を閉鎖するのは創建以来初めてのことである[18]








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