老子道徳経とは? わかりやすく解説

ろうし‐どうとくきょう〔ラウシダウトクキヤウ〕【老子道徳経】

読み方:ろうしどうとくきょう

老子[二]


老子道徳経〈上下/〉

主名称: 老子道徳経〈上下/〉
指定番号 2113
枝番 00
指定年月日 1964.01.28(昭和39.01.28)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 書跡・典籍
ト書 応安六年九月廿六日書写奥書
員数 2冊
時代区分 南北朝
年代 1373
検索年代
解説文: 南北朝時代作品
重要文化財のほかの用語一覧
書跡・典籍:  義天録  羯磨  羽賀寺縁起  老子道徳経  老松堂日本行録  聖一国師墨蹟  聖一国師墨蹟

老子道徳経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/12 03:02 UTC 版)

『老子』(馬王堆帛書乙本)
長春観太清殿の『老子道徳経』(武漢市

老子道徳経』(ろうしどうとくきょう) は、中国春秋時代の思想家老子が書いたと伝えられる書。『荘子』と並ぶ道家の代表的書物。上篇(道経)と下篇(徳経)に分かれ、あわせて81章から構成される。単に『老子』とも『道徳経[注 1]ともいう。道教では『道徳真経』ともいう。『老子五千言』『五千言』ともいう。

成立・伝来

『老子道徳経』成立についての伝説

『史記』老子韓非伝には老子道徳経について下記の伝承が記載されている。 老子はの苦県の人。姓は李氏、名は耳、字は伯陽、諡を聃という。[1]図書館の守蔵吏(司書)をつとめていた。孔子洛陽に出向いて彼に礼の教えを受けている。あるとき周の国勢が衰えるのを見て隠遁の志を起こしの背に乗って西方に向かった。函谷関を過ぎるとき、関守の尹喜の求めに応じて五千言の書を書き上げた。それが現在に伝わる『道徳経』である。[2]

文献学上の老子道徳経

しかし、現在の文献学では、伝説的な老子像と『道徳経』の成立過程は、少なくとも疑問視されている。[3]既に清の陳夢雷『古今図書集成』では、老子に関する話はどれも俗説で嘘が多いとしている。[4]前述の、孔子が老子に教えを受けたという話の初出は『荘子』でとされる。しかし『荘子』の記述は創作が多く、これもそのうちの一つであり、事実ではないと元の羅璧は『孔子師老聃弁』で指摘している。孔子の孫の孔鮒が編んだ『孔子家語』には、このような話が全く出てこないためである。[5]

近年ではそもそも論として老子の実在性すら怪しいということになった。まず、老子なる人物が実在した証拠がない。このことも既に清代に指摘されており、清朝が『古今図書集成』を作った時に集めた民間の伝説では老子は幾世代にもわたり転生を続けた人物とされていた。このことから老子の話はまるで信用できないといわれていた。民間の伝説では三皇五帝の頃からいた人物で、時代ごとに名前を変え、越では范蠡を名乗ったと言い、斉では鴟夷子を名乗り、呉では陶朱公を名乗っていたという。[6]麥谷邦夫は、これを「老子転生説話」といっている。[7] つまり、老子は半ば伝説上の人物で、著者が特定できないのである。さらに、その人物が一人で『道徳経』を書いたということ自体が疑わしい。これが現在の主流の説である。[8]この説では複数名が老子の作者ということになる。金谷治は老子の実在性を疑い、民間で言い伝えられたことわざや格言を集めたものではないかとしている。[9]すなわち『荘子』で言及されている伝説的な賢者の老子は『老子道徳経』の作者ではなく、『道徳経』はのちの道家学派によって執筆・編纂されたものであろうということである。金谷治は「要するに[老子の成立は]はっきりせず、現存の書物との結び付きで考えれば、[老子の成立は]戦国中期(前4世紀)よりさかのぼることはできない。」としている。[9] この老子を作った集団についての研究もあり、加藤常賢は「老子は当時の社会から疎外されていた障害者集団(佝僂人)が、世間の有り様を『これは違う』と指摘して作ったものではないか」とした。[10]

一方、研究者の間では「老子非実在説が通説ではあるが、『老子道徳経』は美しい韻文で書かれて首尾が一貫しており、複数名の手になるとは考えられない」という主張も存在する。この説は小川環樹保立道久が唱えている。[11]

『荘子』にたびたび登場している点から見て、老子の名は、当時(紀元前300年前後)すでに伝説的な賢者として知られていたと推測される。一方で『韓非子』(紀元前250年前後)には、『道徳経』からの引用がある。ただし、荘子以前に書物としての『老子道徳経』が存在したかは疑わしい。『道徳経』の文体や用語、その中にある思想は春秋時代ではありえず、戦国時代のものではないかとの指摘がある。

  • 「大道廃れて仁義あり」の句があるが、「仁義」の語が使われるのは孟子以降である。
  • 「天下水よりも柔弱なるはなし」などの句に出てくる「天下」という語は戦国時代以前は使われなかった語であり、春秋時代の書物とはいえない。[12]
  • 「多く蔵すれば必ず厚く亡ぶ」の句は楊朱の思想から影響を受けている。
  • 戦争に反対する思想の多くは宋子(宋牼)に由来するのであろう。[13]

テキストについて

『老子道徳経』には古来からの伝本によるテキストと、出土資料に基づくテキストがあり、現代の『老子』関係の書物はこれらを比較検討して作られているものが多い。古来からの伝本によるテキストも、出土資料も異本が非常に多い。 書誌学者の谷沢永一は、以下のように指摘している。

『老子』の注釈本は気が遠くなるほど各種各様に出ています。『老子』は異本がたくさんあり、考証学者にとってはきわめて学問的意欲をそそる対象なのです。 — 谷沢 永一・渡部 昇一『老子の読み方 五千言に秘められた「きらめき」をどう拾い上げるか』株式会社PHP研究所.2009

古来からの伝本によるテキストは、安冨歩によれば王弼本、河上公本、想爾本、玄宗御注本の四系統に大別されるという。 [14] 古来の伝本では『正統道蔵』の洞神部玉訣類に収める王弼本の『道德真經註』が古来から良く用いられた。これを「王注道蔵本」という。王弼の整理したテキストが後世道蔵に収録されたものである。ただこの本は錯簡(文章の入れ違い)が多いとされ、江戸時代の儒者宇佐美灊水(うさみ しんすい)が再度校定した「宇佐美本」が別に作られている。この宇佐美本を底本とする書も多い。例えば金谷治訳『老子』は「宇佐美本」と「馬王堆帛書本」を比較検討したものである。[15]

出土資料としては、郭店一号楚墓から出土した戦国中期の残簡(郭店楚簡)が最古である。これを「郭店楚簡老子」という。[16]ただ、「郭店楚簡本」は現在の老子テキストが完成される前のものと考えられ、現在のテキストとは大幅に異なる。原文の考証を行った保立道久は「老子の草稿ではないか」としている。[17]安冨歩は「老子の抜粋であろう」としている。[18] それに次ぐものとして馬王堆漢墓から出土した2種類の帛書(『老子』甲・乙)がある。大きな特徴は道蔵本と上巻・下巻の順序が逆であることである。甲本は劉邦の「邦」を避諱しておらず、漢以前のものである。破損が激しく読めない字も多い。いっぽう乙本の方は破損が少なく、ほとんど内容は道蔵本(王弼本)と同じである。ただし章の順序、切り方、文字の異動は相当ある。[15]保立道久は「老子の決定稿はこちらであろう」としている。[11] 現代の日本の翻訳書では「王注道蔵本」・「馬王堆帛書本」がよく用いられる。[19] 漢以降の出土資料は北大漢簡敦煌文献がある。

注釈書

注釈書としては、王弼の注と、河上公(実際は南北朝ごろの何者か)の注が代表的である。王弼注と河上公注とは本文にも違いがある。中国学者の渡邉義浩は王弼の注そのものが老子を再構築しようとした書であり、内容がしばしば老子を逸脱するとして老子道徳経研究であると同時に独立した思想書でもあるとしている。王弼が後漢の儒教経学の影響を受けているためだという。[20]

その他、江戸時代日本で主流だった林希逸『老子鬳齋口義』(道蔵本では『道徳真経口義』)、唐初の傅奕編とされる『道徳経古本篇』、唐の玄宗皇帝の『開元御注道徳経』、五斗米道の経典とされる『老子想爾注中国語版』、部分的に残存する漢の厳遵『老子指帰』[21]などがある。名前だけ伝わる逸書も無数にある(例:『漢書芸文志に載る『劉向説老子』)。道教の注釈・解釈については『雲笈七籤』巻一道徳部[22]などにまとめられている。近現代、世界的に古典と認識されてからは更に多く作られている。

構成

  • 上篇
    • 第一章 道可道章
    • 第三章 不尚賢章
    • 第十八章 大道廢章
    • 第三十章 以道佐人主章
  • 下篇
    • 第八十章 小国寡民章

内容

形式

『老子道徳経』は約5千数百字(伝本によって違いがある)からなる。全体は上下2篇に分かれ、上篇(道経)は「道の道とすべきは常の道に非ず(道可道、非常道)」、下篇(徳経)は「上徳は徳とせず、是を以て徳有り(上徳不徳、是以有徳)」で始まる。『道徳経』の書名は上下篇の最初の文句のうちからもっとも重要な字をとったもの。ただし馬王堆帛書では徳経が道経より前に来ている。

上篇37章、下篇44章、合計81章からなる。それぞれの章は比較的短い。章分けは馬王堆本のころから存在していたが、注釈者により「この部分は前後とつなげて読むべきだ」と考えたときには章をくっつけたものも存在した。例えば元の呉澄は「大器晩成」の句については前の章とつなげるべきだとしている。[15]

本書の特徴の一つに、文中で固有名詞が使われていないことが挙げられる[23]。ただし「我」が老子本人を指す固有名詞とする解釈も有る。[24]

老子思想

老子

老子の根幹の思想は「道」である。一章「道可道章」では以下のように述べている。このくだりは林希逸『道德真経口義』が「此の章一書の首に居り、一書の大旨は皆な此に於いて具われり」といっており、古来老子の思想の根幹とされた。[25]

道可道,非常道。名可名,非常名。無名,天地之始,有名,萬物之母。常無,欲以觀其妙;常有,欲以觀其徼。此兩者,同出而異名,同謂之玄。玄之又玄,衆妙之門。(第一章)

(現代日本語による大意) 道というものは名付けられるものではない。道とは無である。無こそが天地のはじめである。無は万物の母である。無の玄妙なことは幽玄にして不可思議である

— 老子第一章「道可道章」[26]

そして道とは無為自然によって得られるといい、「人為を用いない政治をせよ」と説いている。[27]第三章の「不尚賢章」では下記の無為自然の政治について語られている。

不尚賢、使民不爭(賢に誇らなければ民を争いあわせることもない。)[28]

 不貴難得之貨、使民不爲盗(得がたい財貨に価値を与えなければ、民に盗みをさせることもない。)  不見可欲、使心不亂(欲しいという欲が起きなければ民衆反乱も起きない。)[29]  是以聖人之治 (だから聖人の政治の下では、)  虚其心、實其腹(人為という意思を用いず、信念を固めて無為の政治が行われる。)[30]  弱其志、強其骨(余計なことを考えず、骨肉は頑強である。)[31]  常使民無知無欲(常に民には何も知らせず、そして何も欲させるな。)  使夫知者不敢爲也 (余計な知を働かせず)[32]

 爲無爲、則無不治(人為を用いない無為の政治をすれば必ず世の中はうまくいく。) — 老子第三章「不尚賢章」

朱子学ではこれは権謀術数に富んだ政治思想であり、「人民は無知のまま生かしておくのが最も幸せである」とする思想、ひいては愚民政策であり、蘇秦張儀のような縦横家に近い考え方で、秦の始皇帝が悪用したとの解釈をしている。[5]また楊栄国は「墨子の尚賢思想を批判したもの」としている。[33]

また、老子に於いては儒教的価値の批判ないし相対的視点の提示をこころみている。たとえば、以下にあげるように、仁義や善や智慧、孝行や慈悲、忠誠や素直さは、現実にはそれらがあまりに少ないからもてはやされるのであって、大道の存在する理想的な世界においては必要のない概念であると述べる。

大道廢 有仁義(偉大な「道」が廃れてはじめて仁義が現れる。仁義の話が出るときには道が廃れている証拠である。)

智慧出 有大偽(人間が利口になると反面、詐欺やなにかが流行りだす。こうなると智慧がとりたざされる。大いなる欺瞞だ。)[34] 六親不和 有孝慈 (父、母、叔父、伯父、叔母、伯母の六親の仲が悪いときに限って孝行や慈悲がもてはやされる。)

國家昏亂 有忠臣 (国家が混乱しているときに限って、率直に君主を諫める忠臣が認識されるようになる。) — 老子第十八章「大道廢章」

老子は儒家や他の思想家について反発、反論した内容が多い。[33]このため後世、「儒家がいなければ老子は何も言う必要がなかった」[35]とか、「老子は所詮、儒家のアンチテーゼに過ぎなかったため、中国思想史では常に脇役だった」[36]、「反対のことばかりいうので弁証法的には見るものがあるとしても、当時の社会変革についていけずに没落した負け犬階級が、すべてのことから逃げようと主張した書である」[33]と言われるようになった。老子は平和思想も説いている。例えば第三十章「以道佐人主章」では、

以道佐人主者,不以兵強天下。其事好還。 師之所處,荊棘生焉。大軍之後,必有凶年。 善有果而已,不敢以取強。 果而勿矜,果而勿伐,果而勿驕。 果而不得已,果而勿強。 物壯則老,是謂不道,不道早已。 (現代日本語による大意)

道義によって君主を補佐する人は、武力で人を従わせはしない。なぜなら武力で支配しようとすればそのしっぺ返しが来ることを知っているからだ。見なさい、戦争が起きれば田畑は荒れ果てて、草ぼうぼうになってしまい農業もできなくなるではないか。大軍の去った後は必ず飢饉が起きる。だから優秀な軍人は戦争を早くやめて目的達成が済んだら終えてしまうものだ。そして勝っても威張らない。戦争はやむをえざるものだと分かっているからだ。強いものは必ず衰える(物壮んなればすなわち老ゆ)。自然に反しているからだ。」老子第三十章「以道佐人主章」

という。[37]

この文は太平洋戦争中、老子研究家の諸橋轍次が学徒出陣する出征兵の月洞譲に「わたしは貴方がたが学問を途中でやめて出征することを喜べない」と涙ながらに語り、「征途を壮にす」(物壮んなればすなわち老ゆの意)と日の丸に書いて送り出したことで有名である。[38]なお、諸橋は戦後「私は戦争に反対した」と敢えて言わなかったという。老子の道に反するからである。月洞は「先生もわたし達を励ましてくれたのだ」と思い込んで出陣し、復員の後、諸橋の老子解釈を読んでようやく真意に気づいたという。[39]

主な成語

影響

『道徳経』は荘子学派(『荘子』外篇・雑篇)や、道家(『淮南子』など)に影響を与えた。智の否定思想は韓非子などの法家の愚民政策に引用された。無為による政治思想は、「黄老思想」として漢代の張良陳平曹参などに実践された。六朝時代になると荘子と老子の思想は「老荘思想」として統合されることになり、後に道教となった。[40]ただ、道教の教えに近い『荘子』と、宗教的な内容が乏しい『老子』は内容にかなりの違いが有るため、果たして同一視してよいかどうかは異論が有る。[41]古来道教と老子のつながりはかなり疑問視されており、対立する儒家や仏教からしばしば批判された。儒家の立場に立つ白居易の『新楽府』[42]では荘子末流の道教が老子を勝手に解釈して不老不死や空中飛行などの超能力を吹聴していることを嘲笑っている。

海漫漫,直下無底旁無邊。 雲濤煙浪最深處,人傳中有三神山。 山上多生不死藥,服之羽化為天仙。 秦皇漢武信此語,方士年年采藥去。 蓬萊今古但聞名,煙水茫茫無覓處。 海漫漫,風浩浩,眼穿不見蓬萊島。 不見蓬萊不敢歸,童男髫女舟中老。 徐福文成多誑誕,上元太一虛祈禱。 君看驪山頂上茂陵頭,畢竟悲風吹蔓草。 何況玄元聖祖五千言,不言藥,不言仙,不言白日升青天。

(大意) 海は満々と広がって底がどこかもわからないのに、道教徒の連中ときたら海の向こうに三つの神の山があるとか、その山には不老不死の薬があるとか、仙人になって羽が生えて空が飛べるなどと言いふらしている。秦の始皇帝も漢の武帝もだまされて、方士に大枚はたいて薬を取りにやらせたが皆持ち逃げしてしまった。道教の徒がいう蓬莱などどこにあるというのかね?海上を眺めてもどこかわからない。海は漫漫、風はピューピューと吹いているだけ。徐福は蓬莱に行って帰ってこない。文成は大うそつきも良いところ。道教の祈祷は験がない。あなたも始皇帝陵や漢の武帝の御陵をみてごらんなさい、悲しい風が草を揺らしているだけだ。そもそも道教徒が崇拝している玄元聖祖様(老子の尊称)の『老子』五千言のどこに不老不死だの、仙人だの、白日昇天などと書いてあるんだい?

— 白居易『新楽府』。解釈は桑原武夫『新唐詩選続編』岩波新書

しかしながら、道家は老子を始祖と尊び、後世の道家に依る老子解釈は前述のように『雲笈七籤』などにまとめられている。『雲笈七籤』では他の宗教からの批判への対応が見られるが、[43]そこに引用されている唐の陸希声『道徳真経伝』は『易経』によって『道徳経』を解釈しようとしたものであった。陸希声は以下のように言う。

大道隱,世教衰,天下方大亂。當是時,天必生聖人。聖人憂斯民之不底於治,而扶衰救亂之術作,周之末世其幾矣。於是仲尼闡三代之文以扶其衰,老氏據三皇之質以救其亂,其揆一也。蓋仲尼之術興於文,文以治情;老氏之術本於質,質以復性。性情之極,聖人所不能異;文質之變,萬世所不能一也。


(大意) 大道が廃れて世が衰えて春秋の大乱世になってしまった。こういうときには天が聖人を生じるのである。孔子は五帝の文をもって世を救おうとした。老子は三皇の質をもって乱世を救おうとした。これは結局は同じことだ。老子と孔子の道が異なることはない。

— 陸希声『道徳真経伝』序、『雲笈七籤』卷一道德部より》

といって陸はその後、易経の文を一々引用して老子と当てはめていっている。[44]

老荘思想は文化面で大きな影響を中国や日本に及ぼした。俳諧の分野では荘子に想を得る表現が多用された。19世紀以来『道徳経』は、ヨーロッパ各国語に相次いで翻訳。寺田寅彦のエッセイにドイツ語で『老子』を読んでの親しみやすさについて記載があり[45]、少数だが戦前は、インテリ層の間で欧文での訳注が認知された。戦後、英語圏の文献を通じタオブームが日本に伝わり、古典中国への新たな取り組みとして広く支持された。

井筒俊彦英訳で『老子 Lao-Tzu The way and its virtue』(慶應義塾大学出版会、2001年。日本語訳は下記)がある。

自然科学への影響

物理学者の湯川秀樹は老荘思想の影響を受け、自著でも空海三浦梅園と並んで老子を高く評価している[46]。湯川の物理理論にも、老子の影響が認められるとする指摘がある[47]

脚注

注釈

  1. ^ 繁体字: 道德經; 簡体字: 道德经; 拼音: Dàodéjīng 発音[ヘルプ/ファイル]

出典

  1. ^ 陳夢雷『欽定古今図書集成』理学彙編・経籍典・第431巻「老子部彙考一」1725年より。
  2. ^ 諸橋轍次『中国古典名言事典』講談社学術文庫、1979、P317
  3. ^ 諸橋1979及び、『日本大百科全書』「老子」の項目(執筆金谷治2015
  4. ^ 陳夢雷1725、原文では「欲正定老子本末,故當以史書實錄為主,并老仙經祕文以相參審,其他若俗說,多虛妄。」
  5. ^ a b 陳夢雷1725
  6. ^ 陳夢雷1725、原文では「上三皇時為元中法師,下三皇時為金闕帝君,伏羲時為鬱華子, 神農時為九靈老子,祝融時為廣壽子,黃帝時為廣成子,顓頊時為赤精子,帝嚳時為錄圖子,堯時為務成子,舜時為尹壽子,夏禹時為真行子,殷湯時為錫則子,文王時為文邑先生,一云《守藏史》。或云在越為 范蠡,在齊為鴟夷子,在吳為陶朱公,皆見於群書,不出神仙正經,未可據也。」」
  7. ^ 『世界大百科事典』「老子」執筆者は麥谷邦夫
  8. ^ 保立道久『現代語訳 老子』筑摩書房・ちくま新書、2018
  9. ^ a b 金谷2015
  10. ^ 加藤『老子原義の研究』1966、これは稀覯書で原書に当たれず、渡部昇一・谷沢永一『老子の読み方』2009にある加藤説の要約に依拠した。
  11. ^ a b 保立2018
  12. ^ 以上は平勢隆郎『『世界の歴史2 中華文明の誕生』尾形勇共著、中央公論社,1998年、中公文庫、2009年より
  13. ^ 楊栄国『中国古代思想史』第七章、人民出版社(中国)、1973
  14. ^ 安冨歩『老子の教え あるがままに生きる』 (p.162). 株式会社ディスカヴァー・トゥエンティワン.2017
  15. ^ a b c 金谷治『老子』講談社学術文庫
  16. ^ 池田知久『郭店楚簡老子の新研究』 汲古書院
  17. ^ 保立2018、小池一郎『老子 訳注-帛書「老子道徳経」』勉誠出版2013も同じ結論。
  18. ^ 安冨2017
  19. ^ 道蔵本と馬王堆本を検討したものとしては金谷治『老子』講談社学術文庫、蜂屋邦夫『老子』岩波文庫があり、馬王堆本によったのは池田知久『老子 (馬王堆出土文献訳注叢書)』東方書店、鈴木喜一『馬王堆老子』明徳出版社、月洞譲『老子の読み方』祥伝社、守屋洋『新釈老子』PHP文庫がある。ただ守屋『老子』1988のように、文章の順番は道蔵本で内容が馬王堆本というものもある。また帛書の漢字は現在の康熙字典体や常用漢字体と異なる異体字が多いため、漢字は通用の字体に置き換えられることが多い。
  20. ^ 渡邉義浩『全譯王弼註老子』解題
  21. ^ 別名『道徳真経指帰』。高橋睦美『『老子指帰』と王弼『老子』注における差異』日本中国学会報 (61) 2009年によれば「六朝玄学の先駆」とされる。
  22. ^ ウィキソース『雲笈七籤』卷一道德部
  23. ^ 山下龍二「「老子」には固有名詞がない」、『日本中国学会創立五十年記念論文集』汲古書院、1998年。ISBN 9784762926204
  24. ^ 渡部昇一の説だが、対談相手の谷沢永一から「それは老子集団の一人に過ぎない。」とも言われている。谷沢は加藤常賢の老子集団制作説を重んじた。谷沢・渡部2009
  25. ^ 諸橋1979及び林希逸『道德真経口義』、以下の章の題名は林の書による。
  26. ^ 諸橋1979。馬王堆本では「恒道」にするなど字句の異同がある。安冨歩2017のように、この章は玄宗御注本により、「道というものは可能性に満ちたもので、どれか一つの常道ではない」と読む読み方が正しいとする説もある。
  27. ^ 諸橋1979
  28. ^ 林希逸『道德真経口義』
  29. ^ 守屋1988
  30. ^ 諸橋1979による。守屋1988では「立派な為政者は人民の生活に配慮し、民衆を無知・無欲の状態とする」と解釈する。
  31. ^ 王弼の注によれば「骨無知以幹、志生事以亂,心虛則志弱也。」とあり、志が生じれば心が乱れるので、心を虚しくして肉体を頑強にするの意であるという。
  32. ^ 王弼の注によれば「知者謂知為也。」とあり、余計な知を働かせないの意である。
  33. ^ a b c 楊1973
  34. ^ 林希逸『道德真経口義』及び諸橋1979
  35. ^ 森三樹三郎の説。
  36. ^ 加地伸行『儒教とは何か』中公新書
  37. ^ 林希逸『道德真経口義』及び守屋1988に依拠した。
  38. ^ 月洞譲『老子の読み方』より。月洞は出征兵士であった。
  39. ^ 月洞譲『老子の読み方』
  40. ^ 道教経典『雲笈七籤』巻一道徳部では玄学の老子解釈書『老子指帰』(老君指帰)、『韓非子』、『淮南子』、陸希声『道徳真経伝』をもとに道教の教えを説いている。
  41. ^ 現代日本における道教系の老子解釈学者には福永光司がいるが、谷沢・渡部2009、安冨歩2017などは福永の解釈があたっているかについては疑問視している。
  42. ^ 桑原武夫『新唐詩選続編』岩波新書では、白居易が儒家の立場から世間を批判したものであるとしている。新釈漢文大系『白氏文集』では、当時道教の怪しげな仙薬に凝って体調を崩していた唐の憲宗を諌める目的で道教を批判したものだとしている。
  43. ^ 山田俊「書評・中嶋隆藏著『雲笈七籤の基礎的研究』」2005、東北大学文学研究科紀要「集刊東洋学」に依拠した。
  44. ^ 読みは山田俊2005に依拠した。
  45. ^ 変わった話」―「電車で老子に会った話」、岩波版『寺田寅彦全集 第四巻』所収
  46. ^ 湯川秀樹『創造的人間』筑摩叢書 1966
  47. ^ 蔡明哲「湯川秀樹の素粒子理論研究と中国の老荘哲学」(素研 85− 2(1992−5))

参考文献

※以上は原典訳・注解

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