ICTYの裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 14:05 UTC 版)
「ラムシュ・ハラディナイ」の記事における「ICTYの裁判」の解説
ハラディナイはたった100日首相を務めた後、デン・ハーグにある旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)によって戦争犯罪の疑いで起訴された。起訴状によると、ハラディナイはコソボ解放軍の司令官として、1998年3月から9月にかけての人道に対する罪や戦時国際法への違反の責任があるとした。その目的は地域の支配権を獲得するために、セルビア人、ロマ、および反対するアルバニア人の市民を攻撃対象としたというものであった。2008年4月3日、ハラディナイは全ての嫌疑について無罪となった。 アメリカ合衆国の上院議員、ジョセフ・バイデンはハラディナイの起訴について、以下のように述べている: 「ユーゴスラビア崩壊後の状況の中で、ハラディナイ氏による自発的なハーグ(ICTY)への投降は際立っている。ハラディナイ氏の決定は、ハーグに訴追されている最も悪名高い3人の人物、いずれも投降を拒否して未だ逃亡を続けている、ボスニアの元セルビア人勢力の将軍ラトコ・ムラディッチ、ボスニアの元セルビア人指導者ラドヴァン・カラジッチ、クロアチアの元将軍アンテ・ゴトヴィナらとは極めて対照的である。 ハラディナイは自身の声明の中で、自身を法廷にゆだね、紛争中および紛争後の自身の行動に関してあらゆる人物による調査を受け入れ、自身の行動が全て合法かつ正当なものであることを明かすことを望んでいるとした。 ハーグでのハラディナイに対する裁判は2007年3月5日に始まった。ハラディナイの弁護団を率いるのは、有力な国際人権弁護士のベン・エマーソン(Ben Emmerson QC)であった。エマーソンは顧問にロドニー・ディクソン(Rodney Dixon)を置いた。弁護団全体は、アイルランドの政治コンサルタントで金融家のマイケル・オライリー(Michael O'Reilly)によって結成された。 ICTYによる起訴状は2005年3月に発行され、ハラディナイはその直後に首相の地位を辞することを決めた。その後ハラディナイは自発的にデン・ハーグへ向かい、保釈が認められるまでの2ヶ月間をデン・ハーグで過ごした。ハラディナイはその時、暴力や市民暴動を止めるための言動で、国際危機グループ やジョセフ・バイデン、後のイギリス防衛大臣ロビン・クック をはじめ多くから賞賛を受けた。 当時の国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)の首班、セーレン・イェッセン=ペーテルセン(Søren Jessen-Petersen)は、ハラディナイを「友人」と表現し、「躍動的な指導力、強い責任感と志向」をもった人物であると評した。 2006年3月、ICTYの上訴部は、ハラディナイの仮釈放の延長と、ハラディナイの公の場での政治活動をする権利を認めた。しかし、その活動にはUNMIKによる許可が必要であった。 2007年2月26日、ハラディナイはデン・ハーグに戻り、裁判が進められた。それまでに、ハラディナイはコソボの大統領ファトミル・セイディウ(Fatmir Sejdiu)、首相のアギム・チェク(Agim Çeku)、UNMIK首班のヨアキム・リュッカー(Joachim Rücker)や多数の外交官らと会合を持った。会見ではハラディナイは市民に対して落ち着くよう呼びかけ、自身が完全に無罪となることを確信していると表明した。 ICTYの主席検事であるカルラ・デル・ポンテは、国際社会の各方面からのハラディナイへの支持に動じることなく、ハラディナイを強く糾弾した。デル・ポンテは、フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥングに対して、「ハラディナイの仮釈放の決定によれば、ハラディナイはコソボの安定要因だということになっている。私は決してそうは思わない。私にとって、ハラディナイは戦争犯罪者である。」と述べた。 デル・ポンテは、おなじインタビューの中で、ハラディナイの法廷で証言する意思のある証人を見つけることは、検察はもちろん法廷にとっても困難であるとした。デル・ポンテは、「コソボの難しさは、国際連合の指導者も、NATOも、誰も我々を助けようとしないことだ。」と述べた。 英国放送協会(BBC)のリポートによると、セルビア人の間にもハラディナイへの一定の支持がみられるとしている。ミトロヴィツァ / コソヴスカ・ミトロヴィツァの北部に住む一人のセルビア人は、以下のように述べている: コソボの政権の中で、コソボのセルビア人少数民族に対して何かしようとしてくれたのは、たった2つだけだ。ひとつはバイラム・レジェピ(Bajram Rexhepi)の政権、そしてもうひとつはラムシュ・ハラディナイの政権、とくに後者だ。 2007年7月20日、法廷の夏季休暇の期間中でのラムシュ・ハラディナイの仮釈放の申し出は却下された。ハラディナイはクリスマス休暇の仮釈放は認められた。 法廷は、2008年4月3日、ハラディナイの無罪を言い渡した。ハラディナイの弁護士であるバライ(Balaj)とブラヒマイ(Brahimaj)は、不必要であるとして一人も弁護側の証人を採ることはなかった。検察側は予定していた3人の証人を法廷に連れてくることができなかった。そのなかの一人、ナセル・リカ(Naser Lika)は、証言を求められていたとき、精神病院に入っていた。別の証人シェフチェト・カバシ(Shefqet Kabashi)は、検察側が自身が証言できる環境を作り上げることができていないとして、証言を拒否した。 判事は、証人らの多くが脅迫を受けていると感じていることを指摘した: 法廷は、これらの証人たちの多くが証言することの安全性を保障することの困難に直面している。彼らの多くが法廷に証拠をもたらすために事前に出向くことへの明らかな恐怖を表明している。これについて法廷は、判決にて詳述されるさまざまな要因により、証人らが身の危険を感じている中で裁判が行われたとの強い印象を受ける。" 検察側の証人として呼ばれていたロマのクイティム・ベリシャ(Kujtim Beriša)は、モンテネグロのポドゴリツァにて2007年2月18日、自動車との事故により死亡した。モンテネグロのセルビア人が自身の自動車を運転していてベリシャとその他2人に衝突した。モンテネグロの日刊紙ヴィイェスティ(Vijesti)は、事故当時に運転手は酒に酔っており、かなりのスピードをだしていたことを警察が確認したと伝えている。 セルビアのメディアは、ハラディナイに対して法廷で証言する予定であった証人の多くが死亡したと伝えた。ICTYの在セルビア代表部ネルマ・イェラチッチ(Nerma Jelačić)は、証人らが殺害されているとする嫌疑は事実ではないと述べた。 スロボダン・ミロシェヴィッチに対する裁判でICTYの検事であったゲオフリー・ニース(Geoffrey Nice)は、コソボの日刊紙コハ・ディトレ(Koha Ditore)のコラムに寄稿し、少なくとも3人の経験豊富な検察官が、ラムシュ・ハラディナイの有罪を証明するのは困難だとして、デル・ポンテに対してハラディナイの起訴に反対するアドバイスをしたとした。 2008年4月25日、ハラディナイの裁判に関する法廷侮辱の疑いで、ICTYは公式にアストリト・ハラチヤ(Astrit Haraqija)とハラディナイの顧問バイルシュ・モリナ(Bajrush Morina)に対する起訴をした。起訴状によると、アストリト・ハラチヤは、当時のコソボの文化青年スポーツ大臣と「ラムシュ・ハラディナイ防護委員会」の支援を受け、当時プリシュティナの日刊紙ボタ・ソト(Bota Sot)の編集者でICTYの保護を受けていた証人P.W.の住んでいる国まで、証人が証言しないよう脅迫するために出向く旅費をバイルシュ・モリナに渡したとしている。 セルビア大統領のボリス・タディッチは、カルラ・デル・ポンテの後任としてICTYの主任検事となるセルゲ・ブランメルツ(Serge Brammertz)に対して、ハラディナイに対する裁判では、証人が証言しないよう脅されたり殺されたりしていると訴えた。2008年5月1日、セルゲ・ブランメルツ率いるICTYの検察は、5月3日の期限切れの前に、公式にハラディナイへの判決に対する異議を申し立てた。検察はまた、無罪となっているハラディナイの協力者イドリズ・バライ(Idriz Balaj)およびラヒ・バフリマイ(Lahi Bahrimaj)の判決に対する異議申し立てもした。後者には懲役6年が言い渡されている。 ハラディナイはICTYで2008年に続き、2012年にも訴追されたが、いずれも無罪判決を受けた。だがセルビアは各国に逮捕要請を続けており、2015年6月にはスロベニア警察に2日間拘束された。2017年1月にはフランス警察に逮捕され、コソボ外務省が早期解放を求めた。
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