ICTY戦犯法廷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 03:24 UTC 版)
「ナセル・オリッチ」の記事における「ICTY戦犯法廷」の解説
デイトン合意が締結されてから、オリッチはトゥズラにてフィットネス・クラブを開業した。終戦後のテレビ・インタビューの中で、オリッチは次のように述べた: 「私がスレブレニツァの主要な指揮官の一人であったことは事実であり、もし必要があるならば、私は質問に答える。しかし、まず始めに、我々が置かれていた時と場所、状況、そして、我々がセルビア人に対してしたことと比べて、セルビア人が我々に何をしたかについて、まず言及しなければならない。もしナセルが答える必要があるならば、私は確かにここにいる。責任追及から逃げることもない。法廷から逃げることもない。ハーグからも、何からも逃げることはない。ただ、私を呼び出すだけで良い。何も問題はない。 オリッチに対するICTYの訴状は2003年3月17日に提出された。オリッチは、国際法、戦時法への違反に関する2件の個人責任と、4件の指導者責任で訴追され、2003年4月10日に安定化部隊(SFOR)によってオリッチのフィットネス・クラブにて逮捕された。オリッチは翌日にハーグに移送された。 オリッチは4月15日に出廷し、すべての起訴事実について否認した。オリッチは2003年7月25日に仮釈放を拒否され、2003年4月11日から2006年6月30日までICTYによって拘束された。
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