G1R
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ルイ・ルノーは自らのルノーD2および製造に多大にかかわっているルノーB1と競合する脅威としてこの計画を注目していたが、もう一方では失敗に終わったAMC34およびAMC35と他のルノー製戦車への信頼性への不満から傷つけられたフランスでもっとも著名な戦車製造者としての名声を取り戻す機会としても受け取っていた。 1936年12月10日にルノーは最初の設計案を委員会に提出した。その直後に会社の軍事部門が国有化され、その工場の名称がAMXに変更された。ルノーはそれでも兵器開発と軍用車両の製造の分野において自社に残された部分を用いて非常に精力的に活動した。すぐにG1計画戦車のルノー版モックアップが完成し、工場内部での名称はルノーACK1だった。この名称は単ユンにルノーの軍用試作車に対して年代順に付与される類のものでそれ以上の意味は存在しない。 ルノーの当初の設計案はルノーR35に基づいていた。この歩兵戦車に似た滑らかに婉曲した鋳造車体だがかなり大型化しており、片側6枚づつの転輪と、新型の幅広履帯の開発を避けるための二重の履帯を備えていた。これは近代的なトーションバーサスペンションだったが、同時にG1Lの初期案のように時代遅れのクリーブランド式トランスミッションであった。 サスペンションを保護する装甲版は車体の主装甲版と一体部品となっている。 車体は一見すると円形の従来型砲塔に似ている、鋳造された平らなドーム型の上部構造がかぶせられていた。Balland大佐による案だが主砲である47mm砲は車体底部から旋回のための中心軸が伸びており、トーチカに隠された火砲のように水平に切られたスリットを通して旋回することになっていたが、しかし現実的にはこの初期案は修正を迫られた 。Jean Restany技師の設計した第二案では「疑似砲塔」は電動砲架を用いて主砲を回すことで旋回する設計となった。この設計のため砲塔は重い防盾を装備する必要がなく、砲の重量を支える必要もなくなり軽量化が見込まれた。上部構造の右側に垂直シリンダー構造が突き出ていて、その上部に連装機関銃が装備された車長用のキューポラが備わっていた。上部構造の右側に砲手兼任尾車長、左側には装填主が配置されており、標準的なAPX1,APX4砲塔に搭載の47mm SA35よりもかなり強力なシュナイダーの47mm対戦車砲を搭載する空間的余裕があった。この優れた火力はルノー案の優位点であり過去のルノーの経験のように早期の生産契約につながると期待されたが、Poniatowskiのロビー活動によって仕様変更され75mm砲を車体へ装備することになったのはルノーにとっては不幸なことであった。ACK1の車体はこれを実現するには平た過ぎたのである。計画を救うためルノーは強力なカウンターロビー活動を行った。1936年12月10日にすでに部分的に行われており砲塔に少なくとも29口径より長砲身の75 mm 砲を搭載することを提案している。 主武装を単一にすることで24トンの計画が19.6トンにまで減少させることも可能かもしれないと主張していた。 委員会は1937年にトーションバー式サスペンションの採用について躊躇しており、またクリーブランド式トランスミッションと二重履帯構造については差し戻した。重量は少なくとも25トンになると結論付けたが、革新的な武装の搭載方式を鑑みて試作車両が発注された。 1938年2月1日の仕様変更は新しい要求を満たすために他の企業の設計案が大幅な設計変更を強いられる一方で、大型車体のルノー案にとっては比較的容易であったためルノーとしては歓迎できた。ルノーはG1Rを1940年に生産開始できると約束したので、1年遅く生産されるG1Lから主要生産型としての立場を奪い取ることができた。 しかしこのとき委員会は見積もられていた重量は買収された歩兵科将校の意図的な欺瞞工作であり、実際には最善の場合でも28トンになることに気づいた。また主張された生産開始予定日もかなり楽観的なものであることものちに明らかになった。1938年4月、ルノーはトーションバー式サスペンションは重量削減に有用であり、また乗員を4人に削減し車内の砲弾搭載数を抑えることで軽量化できると主張した。しかし委員会は車体側面装甲(サスペンション外側の50mm装甲版の内側)が10mmという要求値は薄すぎたとし、他社も同様に重量制限を30トンとすることを決定した。そのため、競合案と比較して重量上の優位はほとんどなくなった。 1938年の夏にはルノー案にさらなる問題が生じた。新たな要求として砲塔に高い安定性と測距装置の搭載が持ち上がったが、鋳造砲塔は容易にはそのような改造ができなかった。 2.5トンの疑似砲塔が砲身の駆動により旋回すると照準が乱れやすい傾向があった。この問題は1939年にAPXの助けを借りて解決され、砲架の垂直軸が砲塔の屋根に直接接続される設計となった。同時にクリーブランドトランスミッションは放棄されました。 1938年と1939年にかけてルノー案の進捗は非常に遅かった。 1939年9月10日に他の設計案は中断されてしまったがG1Rは開発が継続された。おそらくルノー社は他の企業と異なりいまだ生産能力に余裕があったためと考えられている。
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