2000年のレバノン国境安全保証地帯からの国防軍撤退後とは? わかりやすく解説

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2000年のレバノン国境安全保証地帯からの国防軍撤退後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/04 09:55 UTC 版)

ザルイート事件」の記事における「2000年のレバノン国境安全保証地帯からの国防軍撤退後」の解説

1985年7月第1次レバノン紛争第6次中東戦争終結以降イスラエル国防軍イスラエルレバノン国境間のレバノン領土幅数キロメートル安全保障地帯定めて占拠しイスラエル北部居住地対すレバノン側から砲撃防いでいた。レバノンなかでも地理的に隔離されているこの一帯ヒズボラアマル拠点になっていたからである。それから15年間、国防軍テロリストの攻撃により多大な被害受けていたのだが、2000年5月イスラエル首相エフード・バラック当時)は世論圧力受けて同地帯からの国防軍撤退決定する国防軍撤退後ヒズボラは、同地帯はもちろんレバノン南部での勢力拡張した国防軍放棄した陣営占拠し国外から大量兵器入手するなどして兵力の増強努めたまた、相互扶助ネットワーク築いて住民からの支持を得ることに成功し同地域を完全に支配下置いた二度と国防軍侵入占領許さないため、長距離ロケット配備するなど軍備拡張止まることがなかった。つまり、イスラエル対等戦力を持つことで同地域における軍事的な均衡保とう目論んでいたのである安全保障地帯から国防軍撤退して以降イスラエル対すヒズボラ攻撃激減し、それは6年続いた当時好景気もあってイスラエル国境地帯の各居住地観光産業中心に繁栄し平時恩恵享受していた。もっとも、平時といってもそれは相対的なものでしかなく、数が月に一度頻度ヒズボラからの攻撃継続していた。攻撃目標国防軍駐留地が中心だったのだが、まれに一般市民からも死者出ていた。この間攻撃により、6名の市民14名の兵士命を落としている。 首相バラク国防軍撤退前にしてレバノン側に、「撤退機にレバノンからイスラエルに対して戦火火蓋切られるのでれば、レバノン全土焦土と化すであろう」と警告している。しかし、ヒズボラ攻撃対す国防軍報復は、おおむね彼らの拠点対す空爆砲撃などピンポイント攻撃限られていた。これは、報復連鎖極力排除することを目論んだバラク政権方針であった次期首相アリエル・シャロンも前政権方針引き継ぎ攻撃対象ヒズボラのみに限定するなど自制していた。この政策おおむね支持されていたのだが、過度自重イスラエル権威失墜つながりかねないとの反発を招くこともあった。 事実、南レバノン住民国連監視団からは、イスラエル対す攻撃などのヒズボラ側の条約違反は、空爆をはじめとしたイスラエル側の条約違反によって引き起こされていると一方的に非難されていた。また、大多数レバノン人は、国防軍によるレバノン領土空爆、およびイスラエル敵対する勢力加えられ暴力に関して同国断罪していた。 一方撤退から数ヶ月後の2000年10月7日レバノン人のシャバアから数キロメートル南のヘルモン山とドヴ山の間の前線、すなわち国連管理区域目と鼻の先で、国防軍兵士3名(いずれも1等軍曹)、ベンヤミン・アブラハム、アディ・アヴィタン、オマル・サウィードがヒズボラ誘拐されという事件が発生(ただし誘拐時には3名ともすでに殺害されていた)。9日後の10月16日には予備役将校エルハナン・タンネンバウムがレバノン渡航中に誘拐される(後に麻薬取引のために同国渡ったことが明らかになる)。イスラエル政府2004年兵士3名の遺体タンネンバウム身柄返還引き換えに、約1000人のレバノン人とパレスチナ人囚人釈放余儀なくされた。 この捕虜交換成功レバノン人とパレスチナ人インスピレーション与えることになった。すなわち、交渉切り札として利用するために国防軍兵士誘拐するという新し戦術教えてしまったのである。これに味を占めたヒズボラ幹部は、イスラエル国内拘束されているパレスチナ人囚人残りレバノン人の囚人この中には1979年ナハリヤイスラエル市民2名と警官2名を殺害したレバノン国籍テロリスト、サミール・クンタルも含まれている)の解放目論み、国防軍兵士誘拐ほのめかすなどしてイスラエル政府脅かした2005年11月21日レバノンとの国境付近ガジャルにて国防軍兵士ヒズボラによって誘拐されそうになったのだが、この試み未遂終わっている。 2004年9月2日イスラエル待望した国連安保理決議1559号が可決された。この決議は、シリア軍レバノンからの撤退と、ヒズボラをはじめとしたレバノン国内民兵組織武装解除、および解体義務付けるのだったまた、レバノンにおけるシリア影響力排除した杉の革命勢力拡大ヒズボラ解体もたらす観測されていたのだが、いずれも期待を裏切る結果となったヒズボラ依然として勢力維持しさらにはレバノン政界にも進出するようになり、選挙ではシーア派政党、とくにナビ・ベリ率いアマル圧倒するまで支持集めたヒズボラ支持される理由は、その実績もさることながらイスラエルレバノン攻撃仕掛けてきた場合現状では国土守れ唯一の組織だからである。第2次レバノン紛争勃発時、フアード・シニオラ首相とする内閣にはヒズボラから選出され大臣が2名いたことが確認されている(そのうちの1名は資源開発省の大臣であった)。もっとも、レバノン国内ではシリアとの関係上、ヒズボラ対す批判絶えないでいる。 2005年イスラエルでは「砕氷計画」(תוכנית שוברת הקרח)の準備進められていた。この計画最終的に施行されなかったのだが、レバノンとの国境地帯における軍事活動段階的な拡張に関する青写真描かれていたと言われ、ウィノグラッド委員会報告でも言及されている。

※この「2000年のレバノン国境安全保証地帯からの国防軍撤退後」の解説は、「ザルイート事件」の解説の一部です。
「2000年のレバノン国境安全保証地帯からの国防軍撤退後」を含む「ザルイート事件」の記事については、「ザルイート事件」の概要を参照ください。

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