20世紀:ソビエト音楽とは? わかりやすく解説

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20世紀:ソビエト音楽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 19:57 UTC 版)

ロシアの音楽」の記事における「20世紀:ソビエト音楽」の解説

詳細は「w:Soviet music」を参照 ロシア革命の後、ロシアの音楽劇的な変化遂げることになる。1920年代始めには、「革命的な精神」の高まりからアヴァン=ギャルド実験的時代訪れた音楽新しい諸潮流合成和音に基づく音楽など)が、現代音楽協会などの熱狂的な団体によって提唱された 。 1930年代に入ると、ヨシフ・スターリンによる規制時代が始まる。音楽の内容創造性には一定の制限掛けられた。古典主義的な音楽作るべきとされ、実験主義抑圧された。これを象徴する有名な事件として、ショスタコーヴィチオペラムツェンスク郡のマクベス夫人』がプラウヴァ紙から「形式主義的だ」と酷評を受け、直ち数年の上禁止となった出来事がある。 この時代代表する作曲家は、セルゲイ・プロコフィエフドミートリイ・ショスタコーヴィチアラム・ハチャトゥリアンであったその後ゲオルギー・スヴィリードフアルフレート・シュニトケソフィア・グバイドゥーリナ始めとする若くソビエト作曲家の波が訪れる。厳格なソビエト教育受けた彼らは、音楽最前線進み出ることになる。ソビエト連邦作曲家同盟1932年設立されると、ソビエト音楽コントロールする主要組織として君臨したジャズは、1920年代にヴァレンティン・パルナフによってソビエト聴衆紹介された。歌手レオニード・ウチーソフと映画音楽作曲家イサーク・ドゥナエフスキーらが、特にジャズサウンドトラックを含むコメディ映画陽気な連中』によって、ジャズ大衆化推進した。エディ・ロズナー、オレグ・ルンドストレームらもソビエト・ジャズ音楽貢献した映画のサウンドトラックは、オーケストラ音楽実験音楽並んで当時ソビエト・ロシア人気音楽一端担っていた。1930年代には、プロコフィエフによるセルゲイ・エイゼンシュテイン映画のための音楽イサーク・ドゥナエフスキーによる映画音楽などが作られ、そのジャンルはクラシックからジャズまで多岐に及んだ1960年代1970年代になると、ロシアン・ポップやロック幕開け時代となる。その端緒となったのは、ラジオ向けのポップロックフォーク演奏するVIA総称される音楽バンド一群であり、作曲家同盟メンバーによって作曲され検閲承認され音楽演奏していた。ポユシエ・ギターリ、ペスニエリを皮切りとしてこの文化始まり、ツヴェティ、ゼムリャーネ、Verasyなどは人気バンドとして活躍したソビエトエレクトロニカ創始したのは環境音楽作曲家エドゥアルド・アルテミエフである。アルテミエフは、アンドレイ・タルコフスキーサイエンス・フィクション映画のための音楽でその名が最もよく知られる。 この時代ヴァレリー・レオンティエフソフィーヤ・ロタールアーラ・プガチョワ、ユーリ・アントノフなどのポップスター登場した。その中には今日まで活動続けている者も多い。彼らはソビエト音楽メディア主流であり、ソング・オブ・ザ・イヤー、ソポト国際音楽祭、ゴールデン・オルフェウスといった音楽祭引き立て役となった1977年にはモスコフスキー・コムソモーレツ・ヒットパレードと呼ばれるロシア最初音楽ヒットチャート設立された。 ソビエト連邦では、音楽出版宣伝は、国家による独占事業だった。ソビエトミュージシャン音楽収入得たり、名を挙げたりするためには、国家保有レーベルメロディヤ」と契約する必要があった。これは詰まるところ音楽的な実験一定制限課せられることを意味し、誰にでも受け入れられる健全な演奏と、検閲当局が好むような政治的に中立歌詞作ることを強要されることを意味した。ちょうどこの頃新し録音技術到来し一般音楽ファン磁気テープレコーダー使って自分自身音楽録音交換できるようになった。これがアンダーグラウンド・ミュージック(バルドロックなど)のサブカルチャー発展繋がった(彼らは国家メディアで無視されていた)。 「バルド」(bard)の音楽とは、1960年代前半興ったシンガーソングライター運動の意味する総称である。アメリカで60年代流行ったフォーク・リバイバル運動似ており、1台のギターによる編成詩的な歌詞有していることが特徴だった。当初国家メディアから無視されていたバルドだったが、ヴラジーミル・ヴィソツキーブラート・オクジャワ、アレクサンドル・ガリーチなどのバルドは非常に高い人気博したことから、最終的に国家保有レーベルメロディヤ通じて流通されることとなった。バルド・ミュージック最大祭典は、1968年以来毎年開催されているGrushinskyフェスティバルである。 ロックソビエト連邦到来したのは1960年代後半で、ビートルマニアがその担い手となった1970年代後半にはマシーナ・ヴレーメニ、アクアリウムオートグラフなど多くロックバンド国内結成された。VIAの諸グループとは異なり、これらのロックバンド自身音楽出版することが許されず、アンダーグランド活動行なっていた。ロシアン・ロックの「黄金時代」は1980年代であった広く考えられている。検閲緩和され、ロック・クラブがレニングラードモスクワオープンすると、間もなくロックロシア音楽主流派となった当時バンドでは、キノーアリサアリアDDT、ナウチールス・ポムピリウスが人気集めたニュー・ウェイヴポスト・パンクが、80年代ロシアン・ロックの流行だった。

※この「20世紀:ソビエト音楽」の解説は、「ロシアの音楽」の解説の一部です。
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