20世紀:ソビエト音楽
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「ロシアの音楽」の記事における「20世紀:ソビエト音楽」の解説
詳細は「w:Soviet music」を参照 ロシア革命の後、ロシアの音楽は劇的な変化を遂げることになる。1920年代の始めには、「革命的な精神」の高まりからアヴァン=ギャルドの実験的時代が訪れた。音楽の新しい諸潮流(合成和音に基づく音楽など)が、現代音楽協会などの熱狂的な団体によって提唱された 。 1930年代に入ると、ヨシフ・スターリンによる規制時代が始まる。音楽の内容や創造性には一定の制限が掛けられた。古典主義的な音楽を作るべきとされ、実験主義は抑圧された。これを象徴する有名な事件として、ショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』がプラウヴァ紙から「形式主義的だ」と酷評を受け、直ちに数年間の上映禁止となった出来事がある。 この時代を代表する作曲家は、セルゲイ・プロコフィエフ、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ、アラム・ハチャトゥリアンであった。その後、ゲオルギー・スヴィリードフ、アルフレート・シュニトケ、ソフィア・グバイドゥーリナを始めとする若くソビエトの作曲家の波が訪れる。厳格なソビエトの教育を受けた彼らは、音楽の最前線に進み出ることになる。ソビエト連邦作曲家同盟が1932年に設立されると、ソビエト音楽をコントロールする主要組織として君臨した。 ジャズは、1920年代にヴァレンティン・パルナフによってソビエトの聴衆に紹介された。歌手レオニード・ウチーソフと映画音楽作曲家イサーク・ドゥナエフスキーらが、特にジャズのサウンドトラックを含むコメディ映画『陽気な連中』によって、ジャズの大衆化を推進した。エディ・ロズナー、オレグ・ルンドストレームらもソビエト・ジャズ音楽に貢献した。 映画のサウンドトラックは、オーケストラ音楽、実験音楽と並んで、当時のソビエト・ロシアの人気音楽の一端を担っていた。1930年代には、プロコフィエフによるセルゲイ・エイゼンシュテインの映画のための音楽、イサーク・ドゥナエフスキーによる映画音楽などが作られ、そのジャンルはクラシックからジャズまで多岐に及んだ。 1960年代、1970年代になると、ロシアン・ポップやロックの幕開けの時代となる。その端緒となったのは、ラジオ向けのポップ、ロック、フォークを演奏するVIAと総称される音楽バンドの一群であり、作曲家同盟のメンバーによって作曲され、検閲・承認された音楽を演奏していた。ポユシエ・ギターリ、ペスニエリを皮切りとしてこの文化が始まり、ツヴェティ、ゼムリャーネ、Verasyなどは人気バンドとして活躍した。ソビエトでエレクトロニカを創始したのは環境音楽作曲家エドゥアルド・アルテミエフである。アルテミエフは、アンドレイ・タルコフスキーのサイエンス・フィクション映画のための音楽でその名が最もよく知られる。 この時代、ヴァレリー・レオンティエフ、ソフィーヤ・ロタール、アーラ・プガチョワ、ユーリ・アントノフなどのポップスターが登場した。その中には、今日まで活動を続けている者も多い。彼らはソビエト音楽メディアの主流であり、ソング・オブ・ザ・イヤー、ソポト国際音楽祭、ゴールデン・オルフェウスといった音楽祭の引き立て役となった。1977年にはモスコフスキー・コムソモーレツ・ヒットパレードと呼ばれるロシアで最初の音楽ヒットチャートが設立された。 ソビエト連邦では、音楽出版や宣伝は、国家による独占事業だった。ソビエトのミュージシャンが音楽で収入を得たり、名を挙げたりするためには、国家保有のレーベル「メロディヤ」と契約する必要があった。これは詰まるところ、音楽的な実験に一定制限を課せられることを意味し、誰にでも受け入れられる健全な演奏と、検閲当局が好むような政治的に中立な歌詞を作ることを強要されることを意味した。ちょうどこの頃、新しい録音技術が到来し、一般の音楽ファンが磁気テープレコーダーを使って自分自身の音楽を録音・交換できるようになった。これがアンダーグラウンド・ミュージック(バルド、ロックなど)のサブカルチャーの発展に繋がった(彼らは国家系メディアでは無視されていた)。 「バルド」(bard)の音楽とは、1960年代前半に興ったシンガーソングライター運動の意味する総称である。アメリカで60年代に流行ったフォーク・リバイバル運動に似ており、1台のギターによる編成と詩的な歌詞を有していることが特徴だった。当初は国家メディアから無視されていたバルドだったが、ヴラジーミル・ヴィソツキー、ブラート・オクジャワ、アレクサンドル・ガリーチなどのバルドは非常に高い人気を博したことから、最終的には国家保有レーベルのメロディヤを通じて流通されることとなった。バルド・ミュージック最大の祭典は、1968年以来毎年開催されているGrushinskyフェスティバルである。 ロックがソビエト連邦に到来したのは1960年代後半で、ビートルマニアがその担い手となった。1970年代後半にはマシーナ・ヴレーメニ、アクアリウム、オートグラフなど多くのロックバンドが国内で結成された。VIAの諸グループとは異なり、これらのロックバンドは自身の音楽出版することが許されず、アンダーグランドで活動を行なっていた。ロシアン・ロックの「黄金時代」は1980年代であったと広く考えられている。検閲が緩和され、ロック・クラブがレニングラードとモスクワにオープンすると、間もなくロックはロシア音楽の主流派となった。当時のバンドでは、キノー、アリサ、アリア、DDT、ナウチールス・ポムピリウスが人気を集めた。ニュー・ウェイヴとポスト・パンクが、80年代ロシアン・ロックの流行だった。
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