18世紀、19世紀:ロシア・クラシック音楽
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詳細は「ロシアのクラシック音楽史」を参照 「w:Russian Enlightenment#Opera」、「w:Russian Opera」、および「w:Pyotr Ilyich Tchaikovsky and The Five」も参照 ロシア・クラシック音楽のサンプル ピョートル・・チャイコフスキー『こんぺいとうの踊り』 『くるみ割り人形』より。 ニコライ・リムスキー=コルサコフ『熊ん蜂の飛行』 ラッセル・ワーナーによる2台ピアノ用編曲。演奏はニール・オドゥアンとナンシーオドゥアン。 これらの音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。 ロシアは、前述の世俗音楽禁止令により、なかなかヨーロッパ・クラシック音楽の伝統を独自に発展させることができなかった。イヴァン4世の統治が始まると、宮廷はヨーロッパから作曲家や音楽家を招聘し、この空白を埋めた。ピョートル1世の統治時代には既に、これらの音楽家は宮廷のお抱え人となっていた。ピョートル1世は、特に個人的に音楽に傾倒していた訳ではなかったが、ヨーロッパ音楽を文明の象徴として考え、ロシアの西洋化のための道だと信じていた。彼が建設した西洋的都市サンクトペテルブルクの存在により、上流階級の市民にヨーロッパ音楽が急速に浸透した。女帝エリザヴェータの時代、そして女帝エカチェリーナ2世の時代になると、宮廷ではイタリア・オペラが熱狂的な人気となり、貴族階級の中でクラシック音楽への関心が広がった。この熱狂はあまりに広く社会に浸透したため、多くの人々は、ロシア人作曲家が既に存在していたことに気が付かなかった。 多くのロシアの作曲家はヨーロッパ音楽に焦点を当てようとしたが、自身の作品が演奏されるためには、西洋の様式で音楽を記述して行かなければならない、というハードルが立ちはだかった。彼らの中にはこの挑戦に成功した者もいたが、ヨーロッパの作曲法に触れる機会が無いことから難儀する者も多かった。一部の作曲家は、イタリアなどの外国を訪れて研鑽を積み、当時人気の高かったイタリアの伝統に基づく声楽曲や器楽曲の作曲法を習得した。この時代の代表的な作曲家に、ウクライナ人作曲家のドミトリー・ボルトニャンスキー、マクシム・ベレゾフスキー、アルテミー・ヴェデルらがいる。 ロシア生来の音楽の伝統を、世俗音楽の世界に導入した最初の重要な作曲家は、ミハイル・グリンカ(1804-1875)である。グリンカは、ロシア語オペラとしては最初期の作品となる『皇帝に捧げた命』、『ルスランとリュドミラ』などを作曲した。これらのオペラは、初めてのロシア語オペラでもないし、初めてのロシア人による作品でもないが、ロシア的な旋律、ロシア的な主題、そしてロシア独特の話し言葉がはっきりと用いられていることから高い名声を得た。 ロシア民謡は、この若い世代の作曲家たちにとって重要な音楽の源となった。「ロシア5人組」と称する、ミリイ・バラキレフ(1837–1910)をリーダーとしてニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844-1908)、モデスト・ムソルグスキー(1839–81)、アレクサンドル・ボロディン(1833–87)、ツェーザリ・キュイ(1835-1918)が参加する音楽集団が出現し、クラシック音楽の世界におけるロシア民族音楽の浸透と普及を目指すと公に宣言した。ロシア5人組は、『雪娘』、『サトコ』、『ボリス・ゴドゥノフ』、『イーゴリ公』、『ホヴァーンシチナ』などのオペラ、交響組曲『シェヘラザード』などの管弦楽作品を筆頭に、重要な作品を数多く残した。グリンカとロシア5人組の作品は、ロシアの歴史、民話、文学に基づくものが多く、その多くはロマン派音楽における民族主義の傑作として知られる。 また同時期の1859年には、作曲家=ピアニストのアントン・ルビンシテイン(1829-94)、ニコライ・ルビンシテイン兄弟の手によりロシア音楽協会(RMS)が設立した。ロシア民族主義を称揚するロシア5人組と、保守的な音楽を固辞するロシア音楽協会は、しばしば対立することになる。ロシア音楽協会はロシアで初めてとなる音楽院をサンクトペテルブルクとモスクワに設立。サンクトペテルブルク音楽院は、偉大なロシア人作曲家であり、『白鳥の湖』、『眠れる森の美女』、『くるみ割り人形』などのバレエで最もよく知られるピョートル・チャイコフスキー(1840-93)を輩出した。以後、チャイコフスキーはロシア国外で最もよく知られたロシア人作曲家となった。チャイコフスキーのスタイルを継承した作曲家の中で、最も高名な人物がセルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)である。ラフマニノフは、チャイコフスキー自身も教鞭を執ったことで知られるモスクワ音楽院で学んだ。 19世紀後半から20世紀にかけて、ロシアのクラシック音楽には第3の波が訪れることとなる。彼らの名は、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)、アレクサンダー・スクリャービン(1875-1915)、セルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953)、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906-1975)である。彼らはスタイルや音楽語法において実験を繰り返した。ロシア革命の勃発とともに国外移住した者もいたが、その一人プロコフィエフは後に本国に帰還し、ソビエト音楽の発展に貢献している。 19世紀後半から20世紀前半にかけて、いわゆる「ロマンス」と呼ばれる音楽ジャンルが大変な人気を呼んだ。ロマンスを歌う人気歌手の多くは、同時にオペラでも歌う声楽家だった。中でもとりわけ有名な歌手が、フョードル・シャリアピンである。歌手はたいてい自分で作曲を行い、自分で歌詞を書いた。このような営みは、アレクサンドル・ヴェルティンスキー、コンスタンティン・ソコルスキー、ピョートル・レシチェンコといった歌手にも散見される。
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