18世紀、19世紀:ロシア・クラシック音楽とは? わかりやすく解説

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18世紀、19世紀:ロシア・クラシック音楽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 19:57 UTC 版)

ロシアの音楽」の記事における「18世紀、19世紀:ロシア・クラシック音楽」の解説

詳細は「ロシアのクラシック音楽史」を参照 「w:Russian Enlightenment#Opera」、「w:Russian Opera」、および「w:Pyotr Ilyich Tchaikovsky and The Five」も参照 ロシア・クラシック音楽サンプル ピョートル・・チャイコフスキーこんぺいとう踊り』 『くるみ割り人形』より。 ニコライ・リムスキー=コルサコフ熊ん蜂飛行』 ラッセル・ワーナーによる2台ピアノ編曲演奏はニール・オドゥアンとナンシーオドゥアン。 これらの音声映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声動画の再生ご覧くださいロシアは、前述世俗音楽禁止令により、なかなかヨーロッパ・クラシック音楽の伝統独自に発展させることができなかった。イヴァン4世統治が始まると、宮廷ヨーロッパから作曲家音楽家招聘し、この空白埋めたピョートル1世統治時代には既に、これらの音楽家宮廷お抱えとなっていた。ピョートル1世は、特に個人的に音楽傾倒していた訳ではなかったが、ヨーロッパ音楽文明象徴として考えロシア西洋化のための道だと信じていた。彼が建設した西洋的都市サンクトペテルブルク存在により、上流階級市民ヨーロッパ音楽急速に浸透した女帝エリザヴェータ時代、そして女帝エカチェリーナ2世時代になると、宮廷ではイタリア・オペラが熱狂的な人気となり、貴族階級の中でクラシック音楽への関心広がった。この熱狂あまりに広く社会浸透したため、多く人々は、ロシア人作曲家が既に存在していたことに気が付かなかった。 多くロシア作曲家ヨーロッパ音楽焦点当てようとしたが、自身の作品演奏されるためには、西洋の様式音楽記述して行かなければならない、というハードル立ちはだかった。彼らの中にはこの挑戦成功した者もいたが、ヨーロッパ作曲法触れ機会が無いことから難儀する者も多かった一部作曲家は、イタリアなどの外国訪れて研鑽積み当時人気高かったイタリア伝統に基づく声楽曲器楽曲作曲法習得した。この時代代表的な作曲家に、ウクライナ人作曲家ドミトリー・ボルトニャンスキーマクシム・ベレゾフスキー、アルテミー・ヴェデルらがいる。 ロシア生来音楽の伝統を、世俗音楽世界導入した最初重要な作曲家は、ミハイル・グリンカ(1804-1875)である。グリンカは、ロシア語オペラとしては最初期作品となる『皇帝に捧げた命』、『ルスランとリュドミラ』などを作曲した。これらのオペラは、初めてのロシア語オペラでもないし、初めてのロシア人による作品でもないが、ロシア的な旋律ロシア的な主題、そしてロシア独特の話し言葉がはっきりと用いられていることから高い名声得たロシア民謡は、この若い世代作曲家たちにとって重要な音楽の源となった。「ロシア5人組」と称するミリイ・バラキレフ(1837–1910)をリーダーとしてニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844-1908)、モデスト・ムソルグスキー(1839–81)、アレクサンドル・ボロディン(1833–87)、ツェーザリ・キュイ(1835-1918)が参加する音楽集団出現しクラシック音楽世界におけるロシア民族音楽浸透普及目指す公に宣言したロシア5人組は、『雪娘』、『サトコ』、『ボリス・ゴドゥノフ』、『イーゴリ公』、『ホヴァーンシチナ』などのオペラ交響組曲シェヘラザード』などの管弦楽作品筆頭に、重要な作品数多く残したグリンカロシア5人組作品は、ロシアの歴史民話文学に基づくものが多く、その多くロマン派音楽における民族主義傑作として知られる。 また同時期の1859年には、作曲家ピアニストアントン・ルビンシテイン(1829-94)、ニコライ・ルビンシテイン兄弟の手によりロシア音楽協会RMS)が設立したロシア民族主義称揚するロシア5人組と、保守的な音楽固辞するロシア音楽協会は、しばしば対立することになる。ロシア音楽協会ロシア初めてとなる音楽院サンクトペテルブルクとモスクワ設立サンクトペテルブルク音楽院は、偉大なロシア人作曲家であり、『白鳥の湖』、『眠れる森の美女』、『くるみ割り人形』などのバレエで最もよく知られるピョートル・チャイコフスキー(1840-93)を輩出した以後チャイコフスキーロシア国外で最もよく知られロシア人作曲家となったチャイコフスキースタイル継承した作曲家の中で、最も高名な人物セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)である。ラフマニノフは、チャイコフスキー自身教鞭を執ったことで知られるモスクワ音楽院学んだ19世紀後半から20世紀にかけてロシアクラシック音楽には第3の波が訪れることとなる。彼らの名は、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)、アレクサンダー・スクリャービン(1875-1915)、セルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953)、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906-1975)である。彼らはスタイル音楽語法において実験繰り返したロシア革命勃発とともに国外移住した者もいたが、その一人プロコフィエフは後に本国帰還しソビエト音楽発展貢献している。 19世紀後半から20世紀前半にかけて、いわゆるロマンス」と呼ばれる音楽ジャンル大変な人気呼んだロマンスを歌う人気歌手多くは、同時にオペラでも歌う声楽家だった。中でもとりわけ有名な歌手が、フョードル・シャリアピンである。歌手はたいてい自分作曲行い自分歌詞書いたこのような営みは、アレクサンドル・ヴェルティンスキー、コンスタンティン・ソコルスキー、ピョートル・レシチェンコといった歌手にも散見される

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