香川県への貢献・政治家として
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「中野武営」の記事における「香川県への貢献・政治家として」の解説
辞職後は、大隈重信による立憲改進党結成に参加した。そして、同じく下野した河野敏鎌や北畠治房とともに東京で弁護士事務所「修進社」を設立。立憲改進党時代は、政府による弾圧により大隈重信や河野敏鎌などが脱党し、解党の危機に瀕したが、中野は断固として党活動の継続を主張し、尾崎行雄や箕浦勝人、角田真平らともに七名の事務員の一人として党運営の中枢に残った。 1887年(明治20年)、愛媛県会議員となり、県会で「十州塩田組合に関する布達廃止の建議」を提案し、この建議を受けた農商務省は瀬戸内沿岸の十州における塩田の採塩制限を直ちに中止し、競争力のあった讃岐が年中採塩できるようになった。このような実力も認められ、翌1888年(明治21年)に県会議長に選任された。議長在任中、愛媛県から讃岐地方を香川県として独立させることに奔走。 香川県の分県運動はそれまでにもたびたび盛り上がったが、この時は中野武営を中心に、従兄の小田知周(おだ ともたか)、菊池武凞、片山高義ら旧藩士・改進党系が主導した。中野は、地元と連絡をとりながら東京で密に政府要人に働きかけるなど、分県運動の中心となってに奔走し、第3次香川県の設置を成功させた。この功により「香川県『独立の父』」と呼ばれる。 内務大臣山縣有朋が、「香川県設置之件」を黒田清隆総理大臣に閣議請議し、元老院の審議を経て、12月3日に香川県の設置を裁可する勅令(第79号)が公布された。中野は、明治20年に政府に復帰した大隈重信外務大臣や松方正義大蔵大臣などの中央人脈を活用したのではないかと伝えられている。(『海南新聞』明治21年11月13日)また、中野は東京株式取引所肝煎として黒田清隆ら薩摩藩出身者との関係を深めていた。 郷里の香川には、当時、新聞が発行されていなかった。1889年(明治22年)、中野は、小田知周と一緒に香川新報(後に四国新聞)を創刊する。小田が社長に就任。当時、地方での新聞発行はなかなか長続きしなかったが、香川新報はその後、他紙と合併して「香川日日新聞」、改名して「四国新聞」と様変わりしつつ現在も発行され続けている。 その後、松平家の相談役となり、松平頼聰の継嗣である松平頼壽の後見役を務めた。また、1891年(明治24年)高松松平藩から尾張徳川家の養子となった徳川義禮の離縁問題が起こった時、尾張家相談役の田中不二麿や加藤高明に対して、徳川家相談役の勝海舟を説得し問題の解決に貢献した。地元では、第百十四国立銀行、讃岐鉄道株式会社(JR 四国の前身)の役員就任、高松電灯株式会社(四国電力の前身)や高松商業会議所(商工会議所の前身)などの設立や運営を支援したほか、高松市上下水道整備を提唱した。 1890年(明治23年)、帝国議会開設に伴い第1回衆議院議員総選挙では、香川県第1区の高松市から出馬して衆議院議員に選出され、1903年(明治36年)まで7期を務める。理財に通じた中野は初期議会から「衆議院の予算通」として知られ予算委員長に選任された。また、衆議院議員として取引所法、森林法、日本興業銀行法など主として経済関係の法律の制定に貢献した。 1909年(明治42年)、実業界の声を政界に反映させるべく、東京実業組合連合会の支援等を得て東京市から立候補し、衆議院議員に選出され戊申倶楽部を組織し、代議士会長になる。 1914年(大正3年)、東京市政刷新の機運が高まり、中野は、豊川良平、大橋新太郎、加藤正義ら著名な財界人とともに東京市会議員に選出され、ただちに東京市会議長に選出された。渋沢栄一の女婿である阪谷芳郎東京市長や奥田義人市長、田尻稲次郎市長とも連携し、三電灯統一問題や市電料金問題、市長銓衡など当時の市政の錯綜した大きな問題の調整に力を発揮し、1918年(大正7年)の市会議員選挙後も市会議長に再選された。
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