角田真平とは? わかりやすく解説

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角田竹冷

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/14 22:09 UTC 版)

角田真平(竹冷)

角田 竹冷(つのだ/すみだ[注 1] ちくれい、1857年6月4日安政4年5月2日) - 1919年大正8年)3月20日)は、明治・大正期の俳人政治家。本名は真平(しんぺい)。駿河国加島(現静岡県富士市)生れ。東京に出て代言人弁護士)となり、東京府会議員、東京市会議員、衆議院議員を歴任した。位階及び勲等正六位勲四等

経歴

農業・角田彦右衛門の二男として生まれる[1]。1874年(明治7年)に上京し法律学を修めた[1][2]。1880年(明治13年)、代言人試験に合格した[1]。東京府会議員、同副議長、神田区会議員、同議長、牛込区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京市臨時市区改正局長兼水道局長などを歴任[2]

その他、跡見女学校理事、秀英舎取締役、中央窯業取締役、帝国劇場取締役、東京株式取引所理事などを務めた[2]。1883年から1895年まで法廷で争われた相馬事件では錦織剛清側の弁護士として活躍した[3]

1892年(明治25年)に衆議院議員に当選(計7回当選)。1895年(明治28年)、39歳で尾崎紅葉巖谷小波、森無黄、大野洒竹らとともに正岡子規と並ぶ新派の秋声会の創設に関わった。

1896年に『萬朝報』に、角田が人妻を襲った「代議士角田眞平の強姦姦通事件」と題した連載が34回にわたって掲載され、衆議院議員を辞職するに至ったが、1899年には府会議員、1901年には衆議院議員に復帰した[3]

1919年、脳溢血のため死去[4]行年64歳。墓所は麟祥院

句集に『竹冷句鈔』(星野麦人編・大正9年)古俳諧の収集家としても知られ、その蔵書は現在東京大学総合図書館に「竹冷文庫」として蔵されている。

代表句

  • 草餅や二つ並べて東山     
  • 水はりて春を田に見る日ざし哉
  • 傘さして小舟出しけり春の海

親族

脚注

注釈

  1. ^ 本人の著書『聴雨窓俳話』85頁には、「自分の姓は元来駿河の角田(スミダ)であるが、今日では世間からツノダと決められて了つたから、自分も世間の称呼に随つて居るのである。」とある。東京大学竹冷文庫では「すみだ」を正としている。明治期の新聞等では「つのだ」とルビが振られ、本人自筆の履歴書等は「つのだ」となっており、衆議院に本人から提出された履歴書にもとづいて編纂された『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』415頁でも「つのだ」とフリガナが振ってあるのは、本人が世間の呼称に随ったためということとなる。角川書店『俳文学大辞典』・三省堂『現代俳句大辞典』では姓を「かくた」が正しいとするが、根拠不明。

出典

  1. ^ a b c 『大日本人物誌』つ4頁。
  2. ^ a b c 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』415頁。
  3. ^ a b 明治中期における強姦観 ―『萬朝報』の「強姦姦通事件」報道を題材に高島智世 金城大学紀要第11号(2011)
  4. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)18頁
  5. ^ 石井健吾 (男性)人事興信録第4版 [大正4(1915)年1月](名古屋大学)

参考文献

  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。

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