飢饉と新経済政策 (ネップ)・宗教弾圧
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「ウラジーミル・レーニン」の記事における「飢饉と新経済政策 (ネップ)・宗教弾圧」の解説
旱魃(かんばつ)を一因とする1921年から1922年にかけてのロシア飢饉は、1891年 - 1892年以来の深刻な飢饉であり、約500万人の死者を出す結果となった。ソビエト政府が行った食糧徴発および大量の穀物の国外輸出は、この飢饉に拍車をかけた。飢饉による被害者を救援するため、アメリカ政府は救済管理局(英語版)を設立し、食糧支援を行ったが、レーニンはこの支援に疑いの目を向け、注意深く監視した。1920年から1921年にかけ、食糧徴発に対する地方の抵抗運動が反ボリシェヴィキを掲げる農民反乱へと発展する事例がロシア各地で発生したが、いずれも政府によって鎮圧された。1921年2月、ペトログラードの労働者がストライキを決行したため、政府は市に戒厳令を敷き、デモを鎮圧するため赤軍を派遣した。3月には、クロンシュタットの水兵が出版・集会の自由や農民からの食糧徴発の停止などを求めてボリシェヴィキ政府に対する反乱を起こしたが、レーニンは反乱兵が社会革命党および外国の帝国主義者によって煽動されていると宣言し、暴力的な報復措置を要求した。トロツキーが指揮する赤軍は反乱を3月17日までに鎮圧したが、その過程で数千人の死者を出し、生存者は強制労働収容所に抑留されることとなった。 1921年2月、レーニンは党政治局に対して「新経済政策 (NEP、ネップ) 」を提出し、ボリシェヴィキ幹部の大半にその必要性を納得させた上で、4月には法律として通過させた。レーニンは『食糧税について』と題する小冊子の中で新経済政策を解説し、ネップの施行はボリシェヴィキが本来の経済計画へと復帰したことを示すものであり、これまで政府は「戦時共産主義」という経済政策を内戦によって強いられていたと主張した。ネップにおいて、ソビエト政府は戦時共産主義の時代(1918年 - 1921年)に実施された産業の完全な国有化を部分的に撤回し、私人が中小規模の事業を営むことを認めた(大規模産業や銀行、外国貿易などは引き続き国家の統制下に置かれた)。さらに農民からの強制的な穀物徴発 (Prodrazvyorstka)が廃止され、農産物の現物という形で支払う新たな税 (Prodnalog)が導入された。また、税を納めた後の残りは市場で自由に処分することを認めた。レーニンはネップを「国家資本主義」と表現し、ロシアの現状では国家資本主義も一歩前進だと主張したが、多くのボリシェヴィキはこのような政策は社会主義原理への背信であると考えた。 飢饉中、モスクワ総主教であるティーホンは正教会に対して飢餓民救済のため不必要な物品を売却するよう呼びかけ、この行動はソビエト政府によって支持されたが、1922年2月に政府はより徹底した措置へと乗り出し、宗教施設が所有する貴重品のすべてを強制的に接収・売却することを命じた。ティーホンは聖餐に用いられる物品の売却に反対し、他にも多くの聖職者が政府による接収に抵抗したため、暴力的な衝突がもたらされた。1922年3月、シューヤの町で政府による教会財産接収に対する暴動が発生すると、レーニンはこの暴動は教会上層部によって指導されたものと見なし、また直接的な弾圧を実行する機会と捉えた。レーニンは3月19日、シューヤだけでなくモスクワなど各都市で正教会指導者を逮捕し、裁判にかけるべきであると党政治局に文書で伝え、「この機に撃ち殺せる反動的聖職者・反動的ブルジョワの代表者は多ければ多いほどよい。今がまさに、あの者たちに今後の数十年間抵抗を考える気も起きないほどの教訓を与えるべき時である」と宣言した。1922年5月、レーニンは反ボリシェヴィキの聖職者の処刑を命じる布告を発し、その結果として14,000人 – 20,000人が殺害された。最も大きな被害を受けたのはロシア正教会であったが、レーニン政権の宗教弾圧はカトリックやプロテスタントの教会、ユダヤ教のシナゴーグ、イスラム教のモスクなどにも打撃を与えた。
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