雲龍型と不知火型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 09:44 UTC 版)
横綱土俵入りの型は「雲龍型(うんりゅうがた)」と「不知火型(しらぬいがた)」の2種類が存在し、それぞれ雲龍久吉と不知火光右衛門が行っていた土俵入りの型を起源として伝えられたものとされ、綱の締め方やせり上がりの型に差異があるのが特徴である。しかし実際には、四股を踏む前の掌を返す時の構えなどの細部で、指導する親方や横綱自身のアレンジなどによって動作が異なっており、完全には2つの型に集約できないのが実状である。10代二子山(初代若乃花)が大乃国康の土俵入り(どちらも雲龍型)の所作の確認中に「好きにやれ。横綱がやれば、それが横綱土俵入りだ」と助言したことがある。また現在の「雲龍型」と「不知火型」は、その呼称が逆であるという指摘もある(後述参照)。 大まかな型の違いとしては1回目で四股を踏んだ後、せり上がりの時に右手のみを伸ばすのが雲龍型、両手を伸ばすのが不知火型である。雲龍型は梅ヶ谷藤太郎(2代)が、不知火型は太刀山峯右エ門がそれぞれ完成させたとされる。また、綱の締め方は雲龍型は輪を一つ、不知火型は輪を二つで締めており、不知火型用の綱が重い。 型の選択は、所属する一門の別に左右されることが多い。出羽海一門・高砂一門・時津風一門は全員雲龍型、伊勢ヶ濱一門は全員不知火型を選択、二所ノ関一門は混在しているが雲龍型の例が多い。トータルでの選択率は雲龍型が高い(歴代横綱の土俵入りの型は「横綱一覧」を参照)。 「不知火型は短命」というジンクス 永らく、「不知火型の横綱は短命」というジンクスがあった。昭和から平成中期まで、一般に「大横綱」といわれる栃木山守也・双葉山定次・大鵬幸喜・北の湖敏満・千代の富士貢・貴乃花光司・朝青龍明徳はいずれも雲龍型横綱である。 一方、不知火型も型を完成させた太刀山は大正の大横綱で、次いで不知火型を選択した羽黒山政司も戦前から戦後にかけて長期間活躍していた。しかし、これに続く吉葉山潤之輔は、横綱昇進時33歳と高齢で休場がちとなり「悲運の横綱」と評され、さらに続く玉の海正洋の昇進時にある相撲記者が「不知火型は短命というジンクス」と表現し、その玉の海が在位10場所で現役死したことで、以後不吉とされることが多くなってしまった。 その後も、琴櫻傑將が不知火型の保存の意味も込めて選択したとされるが、昇進時すでに33歳で在位9場所(引退場所を除くと8場所)、次いで不知火型を選択した隆の里俊英も昇進時31歳で在位15場所に終わった。双羽黒光司は23歳で昇進したがトラブルにより一度も幕内優勝を果たせず廃業(在位9場所、引退場所を除くと8場所)したため、不知火型のマイナス面をさらに強めてしまった。平成に入ってからも旭富士正也(在位9場所)と若乃花勝(在位11場所)が不知火型を継承するも、両力士揃って横綱昇進後2年足らずで引退するなど短命であった。 しかし、2007年に横綱昇進を果たした白鵬翔が旧・立浪一門として不知火型を選択し、横綱の在位は84場所、幕内最高優勝は45回、連勝も双葉山の69連勝に次ぐ63連勝を記録するなど横綱として数多の大相撲史に残る記録を更新する大横綱となった。次いで昇進した日馬富士公平(在位31場所)も優勝9回の実績を残すなど、不知火型=短命に終わるという流れを払拭した。 ただし、短命ジンクスには諸説ある(明治時代初期に活躍した大坂相撲の横綱・不知火光五郎があまりの強さから妬まれて毒殺され、その怨念があるという説など)。また、短命ジンクスに関係なく、玉の海が昇進するまでの間に「攻撃のみの不知火型の横綱土俵入りは邪道だ」という彦山光三の考え(後述)が広まったこともあって、正統派でないというレッテルを貼られた不知火型を選択する横綱が単に現れなかったとする説もある。
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