雲龍型と不知火型の呼称逆転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 09:44 UTC 版)
「横綱土俵入り」の記事における「雲龍型と不知火型の呼称逆転」の解説
雲龍型は「せり上がりで左手を胸に当て右手を伸ばす」、不知火型は「せり上がりで両手を伸ばす」、という区別が戦前から定着しているが、この呼称があべこべと指摘されることがある。 モチーフである不知火光右衛門の土俵入りには好角家の丸上老人の証言があり、それによると「腰を落として左手をワキに当てて右手を伸ばしてせり上がる」という動作(現在の雲龍型)をしている。ただし、その後に「立ったところで両手を広げた」という形を示しており、終わりの場面だけを見れば現在の「不知火型」ともなるため、全体の流れとしては現在に残る二つの型のどちらにも当てはまるものではなく、むしろこの他の型が存在していたことを裏付けている(前述参照)。 しかし、1869年の撮影と推定される不知火と鬼面山谷五郎が並んで土俵入りのポーズを取っている写真では、不知火が左手を胸に当て右手を伸ばしており(雲龍型)、鬼面山が両手を広げている(不知火型)。鬼面山が実際に、最初から両手を広げてせり上がったかは不明だが、少なくとも不知火の方は前述の証言と、この写真からしても現在の「雲龍型」に近い型であったことがわかる。さらに、太刀山(不知火型)が横綱となった際に、16代木村庄之助から土俵入りを勧められ、「横綱雲龍、即ち後の追手風になった人の型です」と発言している。また当時の相撲雑誌で、鳳谷五郎(雲龍型)については「梅ヶ谷同様不知火の型に則って」と報じられている。太刀山が横綱昇進を果たした直後の新聞や雑誌の報道ではほとんどが雲龍型と報じていたが、東京日日、やまとの2紙だけは、ある行司が適当に口走ったことを真偽も確かめずに「不知火光右衛門の型」と掲載した。 このように、太刀山本人が「雲龍型」とする発言とは関係のないところで「不知火型」という報道も為され、認識が一定しない事態を招くことになった。ところが彦山光三が戦前から戦後にかけて、太刀山と同じ型を継承した羽黒山(1941年)と吉葉山(1954年)について「不知火型」と断定し、新聞や雑誌に書き広めたのをきっかけとして、この呼称が定着していった。 この過程では相撲博物館初代館長の酒井忠正があべこべ説を提唱し、論争に発展した。彦山は、不知火光右衛門の師匠である不知火諾右衛門の錦絵に描かれた、両手を広げている姿が「せり上がり」であるから、これが「不知火型」であると主張。これに対し酒井は(前述のように)「せり上がって立った後に両手を広げる」例もあり、ゆえに錦絵の一場面のみでせり上がりの形を断定することはできないと反論したが、彦山は緻密な論証を成さぬままに、不知火諾右衛門が初めから両手でせり上がったとする自説を押し通した。争いを好まない酒井が論争から退いたために、そのまま彦山説が一般化してしまった。 このように、彦山説が一般に流布された結果、「雲龍型」と「不知火型」は戦前までの証言や報道とは呼称が逆のものとなり、今日に定着している。その後もたびたびこの2つの型が「逆転」していると指摘されることはあるが、マスコミや日本相撲協会にも修正する動きは見られない。 しかし、不知火のように右手を広げてせり上がり、立ってから両手を広げるという動作は大正時代以降の横綱土俵入りにはないものであり、また雲龍が太刀山と全く同様、初めから両手を広げてせり上がったという確証も得られていない。さらには太刀山時代にメディアを二分するほど混乱していることや、羽黒山以降の呼称逆転論争が不十分であることなどもあり、現在残っている2つの型を「雲龍型」「不知火型」と呼ぶこと自体がしばしば疑問視されている。ゆえに、現在に伝わる型を確立した2人の横綱から、「梅ヶ谷型」(=「雲龍型」)、「太刀山型」(=「不知火型」)と呼ぶのが正確ではないかという指摘もある。
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