重宗参議院議長追い落とし
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)
「三木武夫」の記事における「重宗参議院議長追い落とし」の解説
三木は1968年(昭和43年)、1970年(昭和45年)と総裁選で佐藤栄作に挑戦し、善戦するも敗れていた。1971年(昭和46年)、佐藤は1964年(昭和39年)の池田勇人退陣後、7年間の長期政権を維持していた。佐藤長期政権を支えていた柱の一つが参議院の重宗雄三議長であった。重宗は岸信介、佐藤栄作と同じ山口県出身であり、1962年(昭和37年)以降、9年間に亘って参議院議長を務め、更に参議院自民党内の佐藤派を中心とした清風クラブを率いていた。1971年(昭和46年)当時、自民党参議院議員約140名のうち、90ないし100名が清風クラブに所属していたとされ、重宗は参議院の常任委員会、理事の人事権のみならず、閣僚、政務次官の参議院議員枠の推薦権も握り、岸、佐藤と近い重宗は文字通り参議院自民党のドンとして君臨していた。 このような中、重宗の専横を苦々しく思っていた新谷寅三郎、迫水久常、河野謙三らは、1969年(昭和44年)に反重宗を標榜する桜会を旗揚げするが、当初文字通り多勢に無勢であった。しかし1971年(昭和46年)6月27日に行われた第9回参議院議員通常選挙で自民党は敗北し、議席を減らしていた。参議院選挙後、重宗は議長四選出馬を表明したが、桜会の河野謙三は参議院改革案を引っさげ重宗に挑戦した。 三木は重宗に対決する河野に加担することを決意し、三木派の参議院議員は議長選挙の際、河野に投票することを約束した。当初、自民党参議院議員の大半を抑えていた重宗は事態を楽観視しており、自らの議長四選を前提に副議長は上原正吉を選ぶ予定であることを公言していた。しかし河野は全野党からの支持取り付けに成功し、ついに重宗に対抗して正式に参議院議長選への出馬を表明した。先の参議院選挙敗北により与党自民党と野党との議席差は20あまりに縮まっており、自民党から十数名が造反すれば河野議長が誕生してしまう。この事態に保利茂幹事長はあわてた。佐藤政権を支える柱の一つである重宗の敗北は佐藤政権に対する打撃となり、ひいては佐藤の後継者として佐藤、保利らが考えていた福田赳夫にも打撃が広がるためである。 保利はまず河野謙三に近い議員を動かし、河野に翻意を促した。続いて重宗自身が三木に電話をかけ、参議院副議長候補に当初予定していた上原正吉の替わりに参議院三木派の重鎮であった鍋島直紹を当てる人事を提案し、自らの議長四選への賛成を依頼した。しかし三木は重宗の提案を拒絶し、河野議長擁立の姿勢を崩さなかった。結局重宗は参議院議長四選が不可能であると判断し、出馬断念に追い込まれた。 重宗の立候補断念を受け、自民党内では喧嘩両成敗の形を取って河野にも立候補を断念させることにより、事態の収拾を図ることを目指す動きが強まった。保利はまず議長候補として参議院自民党の長老議員であった木内四郎を擁立することにした。無難な人選と見られた木内の擁立により、河野擁立派の結束にひびを入れることを狙ったのである。保利のもくろみは当たり、重宗の専横に対する批判で結束していた桜会には動揺が走り、河野立候補断念の声も上がった。三木は桜会と河野議長擁立行動を共にしていた、当時参議院議員であった石原慎太郎に対し、あくまで河野擁立で突き進むよう説得した。そして参議院三木派にも動揺が広まったが、三木は三木派の参議院議員を集めた上で、木内は所詮佐藤、重宗の操り人形であり、参議院改革のためにあくまで河野擁立を押し進めるべきで、負けたら三木自らが打ち首となると鼓舞した。一方保利も河野派と考えられる議員に対する電話攻勢を緩めず、病気入院中の議員に対しても「担架で運ばれてでも議長選挙に投票せよ」と指示した。 1971年(昭和46年)7月17日未明、河野と木内との激突となった参議院議長選挙が行われた。三木は議長選挙の際、相手に聞こえる声での合図ではなく、足や手を用いて河野投票の合図を送るようアドバイスした。投票の結果、河野は木内を10票上回り、参議院議長に選出された。この結果は佐藤長期政権に明らかに陰りが見え始めた最初の事件となり、翌年の総裁選挙で佐藤の後継者と目されていた福田が敗北し、田中角栄が政権を握るきっかけの一つとなった。
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