近代のスモレンスク
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スモレンスクは1708年にスモレンスク県(グベールニヤ)の中心地となった。スモレンスクはロシアにとって、戦略的・宗教的ほか様々な理由から重要な都市であったが、特に、この地の大聖堂が正教会でも最も崇敬されているイコンのひとつである聖ルカのイコンを持っているために重要であった。1101年に建てられたスモレンスク生神女就寝大聖堂は1611年のポーランド軍によるスモレンスク陥落の際に中の避難民ごと爆発し、その後は応急処置されカトリックの教会となっていたが、1674年に取り壊され、1772年、100年近い工事の末に現在の新しい建物が完成した。スモレンスクの経済はゆっくりと沈滞していったが、モスクワへの進路を守るという軍事上の重要性は消えなかった。 ナポレオン戦争中の1812年8月16日、ナポレオン・ボナパルトに率いられた大陸軍と、ピョートル・バグラチオンやミハイル・バルクライ・ド・トーリの率いるロシア帝国軍はスモレンスクで激突した(スモレンスクの戦い (1812年)(ロシア語版、英語版))。トルストイが『戦争と平和』に描いたこの戦いで、城内に立て篭もっていたロシア軍は街に火を放ち市内を横切るドニエプル川の橋を破壊して退却し、翌17日に大陸軍が入城した。ナポレオン側には9,000人、ロシア側には11,000人の死傷者が出ている。焦土と化したスモレンスクは、補給線が伸びきっていた大陸軍にとって補給の拠点とならず、以後の兵站に支障をきたすこととなった。1912年にはこの戦いの100周年を記念してスモレンスク中心部に鷲をかたどった記念碑が建てられている。 十月革命の直後、ベラルーシの大部分がドイツ軍に占領されていたとき、スモレンスクは行政上はロシアの一部でありながらベラルーシの政治の中心の一つとなった。1918年、ドイツ占領軍はベラルーシ人民共和国の一部としてスモレンスク県の設立を宣言したが、この国は一年弱しか続かなかった。1919年1月2日、白ロシア・ソビエト社会主義共和国がスモレンスクで設立されたが、その数ヵ月後ポーランド軍がミンスクから撤退すると白ロシア政府はミンスクへ移転した。 第二次世界大戦中、スモレンスクは再び大規模な戦闘の舞台となった。まず1941年7月、ソ連に侵入したドイツ国防軍の機甲師団に対する赤軍による最初の反攻であるスモレンスクの戦いが起こった。この戦闘で戦車1200台を擁するドイツ軍が赤軍の戦車を全滅させたものの、60万人近い赤軍も頑強に抵抗して進軍を遅らせ、最終的には20万人がドイツ軍による包囲を破って脱出に成功した。8月にはスモレンスクは陥落し兵士30万人が捕虜となり、市街地の93%が破壊された(第1次スモレンスク攻防戦)。またスモレンスクを宗教上重要な街としてきた「スモレンスクの生神女のイコン」もこの時に焼失し失われた。この抵抗を記念して1985年にはスモレンスクは英雄都市の称号をソ連政府から贈られた。 スモレンスクを占領したドイツ軍はソ連共産党スモレンスク州委員会の文書類を無傷で手に入れた。ドイツへ送られたこの文書は戦後アメリカ合衆国が押収し、西側諸国のソ連行政に対する研究の資料となった。この文書は2002年にアメリカからロシアへ返却されている。1943年8月には、赤軍はスモレンスク州とブリャンスク州を占領するドイツ軍に対して大攻勢を行い、戦線は西へ200kmほど押し戻された。9月25日にはソ連軍はスモレンスクを解放し(第2次スモレンスク攻防戦)、モスクワに対する侵攻の脅威は以後消滅した。
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