近代のハンセン病政策の動向
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「ハンセン病の歴史」の記事における「近代のハンセン病政策の動向」の解説
1897年、ドイツで開かれた第1回国際らい会議でノルウェーの事例が発表され強制隔離政策が推奨された。ただし、日本の隔離政策とは異なり警察による取締りではなく、医師の判断に基づいた強制隔離であった。1909年にノルウェーで第2回国際らい学会が開催され、強制隔離政策による対策の重要性が再確認されるとともに、早期にハンセン病患者から子供を引き離すことが推奨された。 1907年、フィリピン(米国統治下)では、元来、強制隔離政策を行っていたが、大風子油(当時の治療薬)による施設治療を行い、菌が陰性化した患者は社会復帰させるという開放制度に転換した(パロールシステム)。患者の意志ではなく、多くの伝染病患者に対し施設収容・治療の効率化することが目的であったが、この開放制度は世界で初めての試みで画期的な政策であった。この政策は、1923年にストラスブルクで開かれた第3回国際らい学会によって発表されたが、退所後の再発は非常に高いことなどが明らかになり、開放制度や大風子油治療の効果については否定された。一方で小児に伝染しやすいことから「産児は母から引き離すこと」「らい患者は伝染させる職業にはつくべきでない」などの公衆衛生的に必要な隔離ための方法が決議された。 1931年、国際連盟は「らい公衆衛生の原理」と題する著作を発刊し、ハンセン病の早期患者に対しては施設隔離を行わず、外来診療所で大風子油による治療を行うのが望ましいとされ、政策として初めて「治療対策」「脱施設隔離」が打ち出された。ただしその一方で重症の伝染性の強い患者は施設に強制的に隔離する重要性も再確認されている。1938年にカイロで開催された第4回国際らい学会では、その影響を受けて疫病地の大風子油による施設治療政策は認められた。 1941年にはアメリカのファジェットにより新薬であるプロミンが使用され、これにより大風子油からプロミンと治療方法が変化しハンセン病は治る病気となった。その後は、隔離政策は徐々に衰退し外来診療が重視されていくことになる。 各国の状況 日本では「らい予防法」が1907年に制定され、患者は人権をほとんど認められず、強制隔離、不妊手術の強要が実施された。世界的な動向と逆行するかのように、1931年には強制隔離政策(感染の拡大を防ぐため全患者を療養所に強制的に入所させる政策)が本格化したのであった。1996年、ようやく「らい予防法」が廃止された。2002年、小泉純一郎首相が公式に謝罪し、治療法確立後も強制隔離をつづけた国の責任を認めて元患者との和解がようやく成立したが、今もなお病気に対する正確な知識の欠如から、後遺症に対する差別に苦しむ人が多い。 1942年頃のアメリカでは、テキサス・ルイジアナ・フロリダの州法において、医師の診断を条件にカーヴィルの療養所へのハンセン病患者の収容が行われた。この療養所は1894年に開所され、1942年当時アメリカ本土に2500人存在したハンセン病患者のうち1371名が入所していた。
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