近代のハンセン病政策の動向とは? わかりやすく解説

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近代のハンセン病政策の動向

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 04:43 UTC 版)

ハンセン病の歴史」の記事における「近代のハンセン病政策の動向」の解説

1897年ドイツ開かれた第1回国際らい会議ノルウェー事例発表され強制隔離政策推奨された。ただし、日本隔離政策とは異なり警察による取締りではなく医師の判断基づいた強制隔離であった1909年ノルウェー第2回国際らい学会開催され強制隔離政策による対策重要性再確認されるとともに早期ハンセン病患者から子供引き離すことが推奨された。 1907年フィリピン米国統治下)では、元来強制隔離政策行っていたが、大風子油当時治療薬)による施設治療行い陰性化した患者社会復帰させるという開放制度転換した(パロールシステム)。患者意志ではなく多く伝染病患者対し施設収容治療の効率化することが目的であったが、この開放制度世界で初めての試み画期的な政策であった。この政策は、1923年にストラスブルクで開かれた第3回国際らい学会によって発表されたが、退所後再発は非常に高いことなどが明らかになり、開放制度大風子油治療の効果について否定された。一方で小児伝染しやすいことから「産児は母から引き離すこと」「らい患者伝染させる職業にはつくべきでない」などの公衆衛生的に必要な隔離ための方法決議された。 1931年国際連盟は「らい公衆衛生原理」と題する著作発刊しハンセン病早期患者に対して施設隔離行わず外来診療所で大風子油による治療を行うのが望ましいとされ政策として初めて「治療対策」「脱施設隔離」が打ち出された。ただしその一方で重症伝染性の強い患者施設強制的に隔離する重要性再確認されている。1938年カイロ開催され第4回国際らい学会では、その影響受けて疫病地の大風子油による施設治療政策認められた。 1941年にはアメリカのファジェットにより新薬であるプロミン使用され、これにより大風子油からプロミン治療方法変化しハンセン病治る病気となったその後は、隔離政策徐々に衰退し外来診療重視されていくことになる。 各国の状況 日本ではらい予防法」が1907年制定され患者人権をほとんど認められず、強制隔離不妊手術強要実施された。世界的な動向逆行するかのように1931年には強制隔離政策感染の拡大を防ぐため全患者療養所強制的に入所させる政策)が本格化したのであった1996年、ようやく「らい予防法」が廃止された。2002年小泉純一郎首相が公式に謝罪し治療法確立後も強制隔離つづけた国の責任認めて患者との和解がようやく成立したが、今もなお病気対す正確な知識欠如から、後遺症対す差別苦しむ人が多い。 1942年頃のアメリカでは、テキサス・ルイジアナ・フロリダの州法において、医師診断条件にカーヴィルの療養所へのハンセン病患者収容が行われた。この療養所1894年開所され、1942年当時アメリカ本土2500存在したハンセン病患者のうち1371名が入所していた。

※この「近代のハンセン病政策の動向」の解説は、「ハンセン病の歴史」の解説の一部です。
「近代のハンセン病政策の動向」を含む「ハンセン病の歴史」の記事については、「ハンセン病の歴史」の概要を参照ください。

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