近代のジャラシュ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 16:12 UTC 版)
ジャラシュは20世紀の間に劇的に成長した。これはヨルダン北部の中心に位置し戦略的に重要であること、観光地としての価値が高まったことが原因に挙げられる。ジャラシュの遺跡は今日、ペトラ遺跡に次ぎヨルダンで二番目に人気のある観光客の訪問先となっている。遺跡は慎重に保存されており、スプロール状に広がる近代のジャラシュの街が西側の遺跡まで広がらないよう規制されている。 ジャラシュには当初、近隣の町・スーフ(سوف, Souf)およびその近郊農村の人々が移り住んだ。スーフはオスマン帝国時代、長年にわたりヨルダン北部のアル=メラダ(al-Meradh)地方の中心都市であった。この地方は、南方のベドウィンのバニ・サヘル部族(Bani Sakher)による襲撃や略奪に抵抗したヨルダン北部唯一の地方であり、抵抗のための組織を築いてついにベドウィンの侵入に打ち勝った。 最初はスーフの郊外の町であったジャラシュは19世紀後半以降、シリア北部の農民らの移民の入植で急速に拡大した。またロシアや東欧からオスマン帝国に逃げてきたムスリムはオスマン政府によりシリアやヨルダン各地に組織的に入植したが、ジャラシュには北カフカスのチェルケス人が入植した。20世紀後半にはパレスチナ難民がジャラシュに住むようになった。ジャラシュは拡大を続け、かつての中心地だったスーフをはじめ近郊の農村はジャラシュの通勤圏に飲み込まれている。
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