近代のスポーツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 09:36 UTC 版)
近代のスポーツは中世社会のスポーツ文化を発展継承しつつ、近代社会で主導権を持ったブルジョワジーの論理である近代合理主義に基づき、それまでの伝統的なスポーツを再編して成立し、伝統的スポーツの土着性や祝祭性を排除し、産業化、規格化の方向に向かって発展した。これらのスポーツは以降のスポーツ文化の中心的役割を果たした一方、近代化できなかったスポーツはスポーツ文化の周縁に追いやられ存続することになった。 多くの近代スポーツは、それ以前の中世に都市や農村で行われていたスポーツにまでたどることができる。これらは、現在行われているスポーツに比べてルールがあまり整備されておらず、暴力的で混沌としている。ストリートフットボールのような祝祭日に行われていたスポーツは、しばしば暴徒化し、政府当局から禁令が出された。民衆にとって健全な娯楽が求められていた。17世紀のイングランドで現れたボクシングは、1743年に初めてルールが整備された。これに対して王侯貴族がパトロンとしてスポーツ競技会を開催することもあった。競馬は特に上流階級の人々に人気があり、イギリスのアン女王がアスコット競馬場を設立するほどであった。 ウィンチェスターやイートンなどの多くのイギリスのパブリックスクールでは、スポーツ、特にフットボールを教育に取り入れた。産業革命により人々が農村から都市部に移動するのに伴い、農村のスポーツが都市部にもたらされ、中流階級や上流階級に影響を及ぼした。産業革命により交通が整備され人々の移動が活発になると、イギリス国内やほかの場所でパブリックスクールや大学のチーム同士が対戦する機会が増え、ルールの違いにより衝突が多くなると、さまざまなパブリックスクールでのルールを統一するため、初のサッカーにおける統轄団体であるフットボール・アソシエーションが設立された。このFAが創設された1863年以降、イングランドではサッカークラブが多く創設された。現在プレミアリーグに所属するクラブのほとんどは19世紀末に創設されている。このほか多くのスポーツで19世紀末までに全国的な統轄組織が設立されていった。また、上級階級からの影響でアマチュアリズムやフェアプレーの精神が強調されるようになった。 イギリスのスポーツはイギリスの海外進出に伴い、19世紀末から20世紀初頭にかけて世界中に広まっていった。クリケットはオーストラリア、南アフリカ、インドなど当時の大英帝国の多くの国で普及した。 市民革命により、国防の中心が貴族から市民へと移ると、それに伴い国防の担い手としての国民教育の必要性が高まった。国家秩序の形成のために体操が取り入れられ、ヤーンのドイツ体操、リングのスウェーデン体操が行われるようになった。 フランスのクーベルタンは普仏戦争で敗れた青少年の活性化のためスポーツ教育に着目し、イギリスに留学した。イギリスから帰国したクーベルタンは1894年に開かれたパリの国際会議で、オリンピックの復活を宣言し、国際オリンピック委員会が設立された。これ以降スポーツの組織化が進んだ。
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