近代のドミトロフと工業化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 06:57 UTC 版)
「ドミトロフ」の記事における「近代のドミトロフと工業化」の解説
1781年、エカチェリーナ2世の行政改革でドミトロフは市となりこの一帯の行政の中心となった。またロシアの多くの町と同様に、この時期に町の紋章が与えられている。18世紀から19世紀にかけてはドミトロフはモスクワ・サンクトペテルブルクを結ぶ商業都市となり、ロシアの平均的な都市の人口に商人が占める割合が1.3%だった時期、ドミトロフでは商人は人口の10%から15%を占めた。18世紀末の地域経済発達で、石造りの家が建設され、古い木造教会の再建が進み、1784年には都市計画も行われた。 1812年には祖国戦争が起こりドミトロフはナポレオン率いる大陸軍に占領され破壊された。しかしクリンからのロシア軍の接近を知った大陸軍は戦いを避けるためドミトロフからすぐに撤退している。 19世紀の後半、モスクワからサンクトペテルブルクを結ぶ鉄道がモスクワ北東のクリンを通り(1851年)、モスクワと北のヤロスラヴリを結ぶ鉄道がセルギエフ・パサドを経由すると(1869年)、鉄道という物流の大幹線から外れたドミトロフの経済は、古くからの内陸河川交通の衰退もあり停滞した。ドミトロフ地区はモスクワ周辺でも工業の集積が進み、ドミトロフはこの地方の行政・交易の中心ではあったものの、市の人口は減少し続けた。しかし1900年にモスクワからヴォルガ川沿いの町サヴョロヴォ(現在はキームルィの一部)を結ぶ鉄道がドミトロフを通ると経済は回復を始め、第一次世界大戦景気で機械産業も人口も大きく伸びた。 ロシア革命の最中にロシアに戻った無政府主義者ピョートル・クロポトキンは、1921年に没するまでドミトロフで暮らしている。1932年から1938年には内陸河川交通を刷新するべく、モスクワとヴォルガ川上流を結ぶモスクワ運河の建設が始まった。この作業には政治犯らが投入され、ドミトロフにはグラグ(強制労働収容所)が設けられている。運河建設に伴い工場も進出し、ドミトロフは周辺の村を併合し人口も3倍に増えた。しかし運河建設のため、運河開削予定地域にあった古いヴァシレフスカヤ聖堂や救世主顕栄大聖堂などが取り壊されてしまった。 1941年の大祖国戦争では11月26日から27日にかけドイツ国防軍が迫った(モスクワの戦い)。ドイツ軍はドミトロフの南でモスクワ運河を占領したが、赤軍の反攻でドミトロフ市内には入ることができなかった。12月11日にはドミトロフ地区からドイツ軍は撤退している。 1960年代と1980年代、プレハブコンクリート製のアパート多数が建設され、ドミトロフはソ連の他の都市同様の外観を呈するようになった。ソビエト連邦の崩壊後の1990年代には開発は停滞したが、2000年代には勢いを回復し、2004年の建都850周年には大規模な改装・開発が行われ、2005年には「ロシアで最も快適な都市」コンテストの10万人以下の規模の都市部門で一位となった。
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