農業と初期の公的活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:30 UTC 版)
「ローレンス・S・ロス」の記事における「農業と初期の公的活動」の解説
南北戦争が終わった時にロスは丁度26歳だった。ロスはウェーコの西、サウスボスク川沿いの農地160エーカー (65 ha) と町の中に5.41エーカー (2.2 ha) の土地を所有していた。ロスとその妻は初めて自分達の家を建てることができた。その後17年間に8人の子供が生まれて、その家族を増やしていった。 マービン 1866年1月2日生まれ 1883年死亡 ローレンス・サリバン・ジュニア 1868年7月25日生まれ フロライン 1870年10月3日生まれ ハーベイ 1873年3月日生まれ フランク 1875年4月27日生まれ エリザベス 1878年4月24日生まれ ジェイムズ・ティンズリー 1880年12月30日生まれ 1881年死亡 ネビル・P 1882年3月23日生まれ ロスは南軍将軍のための連邦恩赦を受けたにも拘わらず、1867年3月2日の最初のレコンストラクション法によって選挙権と陪審員になる権利を剥奪された。この法は3週間後に成立したレコンストラクション補助法と共に、アメリカ連合国を支持する前に連邦あるいは州の役職を務めていた者すべてから権利を剥奪した。ロスはテキサス・レンジャーズに務めていたので、選挙権を剥奪された。 レコンストラクションはロスの資産には害を与えず、勤勉に働いたことで間もなく資産家になった。戦争が終わった直ぐ後に、両親から町の中の土地20エーカー (8 ha) を1,500ドルで購入した。1869年5月までに追加農地40エーカー (16 ha) を400ドルで購入し、翌年には妻が父の領地から186エーカー (80 ha) を相続した。ロスは土地購入を続け、1875年暮れまでに1,000エーカー (405 ha) 以上の農地を所有していた。農業以外にロスと兄弟のピーターで短角牛を育てた。2人はニューオーリンズまで数回牛の群れを追っていったことがあった。共同の農業と牧場でロスは十分な資産を得て、ウェーコ市内に家を建て、子供達は私立学校に通わせた。 1873年までにテキサス州のレコンストラクションは終わりとなった。その12月にロスは「選挙運動やその他の勧誘も無しに」マクレナン郡の保安官に当選した。ロスは直ぐに兄弟のピーターを副官に任命し、2年間に700人以上の無法者を逮捕した。1874年、ロスはテキサス州の保安官連合の設立に貢献した。さまざまな州内新聞がこの出来事を報じ、テキサス州65郡の保安官が1874年8月にコーシカナに集まった。ロスは協議会の決議案を起草する3人委員会の1人になった。彼等は特別な状況下では保安官に大きな報酬を要求し、暴徒法の精神を非難し、また州法を修正して「犯罪者に法の命令に従うよう強制する」必要があるならば、逮捕する役人が武力を用いても良いようにする提案を行った。 ロスは1875年に保安官を辞任し、間もなく1875年テキサス州憲法制定会議の代議員に選ばれた。会議の議長に選ばれていたE・B・ピケットに仕えることになった3人の委員の1人となったロスは直ぐに、会議に必要とされる役員と雇員を決める委員会にも指名された。ロスは歳入および課税、辺境事情特別委員会、教育特別委員会および立法府常任委員会など他の多くの委員会にも属した。会議の開催された68日間のうち、ロスは63日間に出席して343回の投票を行い、投票できないことや棄権したことは66回に過ぎなかった。 会議が終了するとロスは家に戻り、次の4年間はその農業に注力した。1880年、ロスはテキサス州第22選挙区からテキサス州議会の偶然の候補者になった。候補者指名の協議会が2人の候補者の間で争われ、どちらも3分の2以上の多数を獲得できなかったので暗礁に乗り上げていた。妥協案として候補者の1人がその集団はロスを指名すると提案した。誰もロスに出馬を望むかを尋ねたわけではなかったが、代議員達はロスを候補者に選出した。ロスはトラブルを収めるためと会議費用を嵩ませないために立候補に同意した。 ロスは圧倒的多数で当選した。州都オースティンに着いた直ぐ後に、一番下の息子が死んだ。ロスは1週間家に戻って葬儀に出席し、やはり重病だった他の息子の面倒を見た。オースティンに戻ったロスは教育問題、内陸改良、財政、州刑務所、軍事問題(委員長)、州政、臨時費、家畜と畜産、農業問題および登録法案の各委員会に籍を置いた。ロスはマクレナン郡の市民500人に代わって、次の州全体の住民投票で禁酒法修正案を掛けることを要求する請願を行った。テキサス州議会はこの案を次の州全体の住民投票に掛けることに同意した。 テキサス州議会は2年間に1度開催されるのが通常だったが、1881年に州会議事堂が焼け、1882年4月の特別会期に呼び出された。この会期では新しい州会議事堂の建設に合意された。特別会期の終わり近く、上院が選挙区再配分案を可決し、このことでロスの任期は4年間から2年間に短縮された。ロスは再出馬を辞退した。
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