農本主義と昭和維新
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1929年(昭和4年)に麻布台から代々木上原に引越しをし、帝大七生社の四元義隆が下宿したり、また橘孝三郎の紹介で日蓮主義者の井上日召や、のちに血盟団事件に参加する水戸の学生らが出入りした。また、海軍革新派で五・一五事件の実質的指導者であった藤井斉も権藤成卿の『自治民範』(『皇民自治本義』)を絶賛していた。1929年秋のアメリカ合衆国からはじまる世界恐慌の波は日本でも深刻なものとなり、1930年から翌年にかけて昭和恐慌となり、農村の窮乏(昭和農業恐慌)も問題視された。 昭和6年(1931年)8月、権藤と橘孝三郎は初対面したが、橘は以前より権藤を著作を通じて尊敬していた。 同年11月、権藤は平凡社社長で農民自治会の下中弥三郎、農民協議会の長野朗、法政大学の小野武夫、作家の武者小路実篤や今東光、愛郷塾の橘孝三郎らと農本主義者の共同戦線「日本村治派同盟」が結成される。日本村治派同盟では「反都市」「反資本主義」「反近代」が共通認識であったが、橘孝三郎と長野朗は翌1932年2月に脱会し、雑誌「農本連盟」を創刊する。権藤は1931年に『日本農制史談』、1932年に『君民共治論』『日本震災凶饉攷』『農村自救論』などを立て続けに発表した。 1932年(昭和7年)2月9日、井上日召の指令で井上準之助が、3月5日には三井財閥の団琢磨が射殺される血盟団事件が起こる。 1932年 3月、静岡で農村青年共働学校を開いていた岡本利吉が主導して、犬田卯、トルストイ主義者で農本共働塾の加藤一夫、長野朗、橘孝三郎、瑞穂精舎を創設した和合恒男、農民運動家の中沢弁次郎らとともに権藤は農本連盟を発足するが、短期で分裂する。分裂後の同年4月、権藤を顧問とし、長野朗、橘孝三郎、和合恒男、稲村隆一、宮越信一らが自治農民協議会を結成する。 自治農民協議会の綱領は 政治的には我が社稜体統公同自治を確立す 経済的には我が共存互済の原則により農を本とし衣食住物資の充足に努む 教育は人の性能を甑養するを以て目的とす 外交は彼我協和の主旨を重んじ有無疏通を以て目的とす といったもので、権藤の思想が濃厚に反映されたものだった。自治農民協議会はその後、農家負債3年据え置き、補助金、満蒙移住費補助の三か条を掲げた請願運動を開始する。 1932年は自治的農本主義運動の最盛期であったとされ、政府も農山漁村経済更生運動(自力更生運動)をはじめている。同1932年5月15日、海軍の古賀清志や血盟団残党によって犬養毅首相らが射殺される五・一五事件が発生する。権藤はこれらの昭和維新に思想的影響をおよぼしたという嫌疑で投獄されたが、無関係があきらかになり釈放された。1932年10月の信州での座談会では窮之におかれた信州の農民や商工業者が軍部に期待をかけるのに対して、権藤は軍部による革命を否定すると同時に、性急・安易な社会改造でなく、堅実な社穣自治への復帰を説いた。 1932年6月には自治農民協議会の三か条請願運動は3万2千の署名を集め、衆議院を通過、6月13日には政友会の農村負債整理を含む政友会協議案が可決した。 昭和維新後、権藤は目黒中根町で塾「成章学苑」を、1935年10月には制度研究会を発足させ、また松沢保和によって雑誌『制度の研究』が発刊した(-1937年1月。下中弥三郎、犬田卯、武者小路実篤、橘孝三郎らの日本村治同盟、自治農民協議会が後押ししたとされる。 1934年(昭和9年)、権藤は「制度学雑誌」を創刊、制度学研究会を発足させ、機関紙「制度と研究」も出した。翌年は二・二六事件が勃発、時代は国体明徴運動へと大きく迷走していった。権藤はまた、日中開戦を批判した。 1937年(昭和12年)7月9日、没。
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