農村から都市への人口流出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 15:30 UTC 版)
「天明の打ちこわし」の記事における「農村から都市への人口流出」の解説
享保年間になると、寛永20年(1643年)に出された田畑永代売買禁止令の原則が骨抜きとなっていき、延享元年(1744年)にはついに田畑の所有権の移動、そして田畑を買い取り集積することが公式に認められるに至る。その結果各地の農村で地主制が急速に広まっていくことになる。宝暦から天明期になると、領主からの年貢と地主からの小作料という二重の負担に耐え切れなくなった多くの農民が没落し、離農を余儀なくされるようになった。 離農した農民たちの多くは、江戸を始めとする都市に流入した。主に生活苦によって農村から都市へと流入した農民たちは、後述する都市における階層分化によって没落した商工業者などとともに都市での貧民層を形成するようになった。天明7年5月の江戸打ちこわしでも、明和から天明期にかけて江戸近郊の関東農村から離村し、江戸に流入した人たちが打ちこわし勢に参加していたことが確認され、当時の関東地方の農村では地主から小作農までの階層分化が進み、没落した農民層が離村して江戸に流入していったことが想定される。 また多くの下層農民が離村して都市へと流入するようになると、地主にとっても悪影響をもたらすようになった。それは農村人口が減少して小作人が不足し、農業生産に支障をきたすようになったからである。天明期になると労働力不足の結果、地主経営も難しくなってきており、農村自体に行き詰まりが見られるようになっていた。
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