農政への転身
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明治4年(1871年)頃大蔵省勧農寮に出仕し、明治5年(1872年)頃塾を校主代理・塾長に任せて大阪に移り、農書の翻訳・編纂に当たった。 1875年(明治8年)5月島邨泰の開農義会社員となり、『開農雑報』に活発に寄稿したほか、波東農社合併社員として茨城県鹿島郡の開墾事業に出資した。1881年(明治14年)大日本農会創立時に常置議員・農芸委員(虫学科)となった。 1877年(明治10年)5月から10月まで勧農局の命で青森県津軽郡に出張し、藁の焼却、誘蛾灯による駆除、虫の付いた稲茎の焼却、肥料への塩分添加を指導し、岩館村の試験田で薬剤試験を行った。これが政府による虫害調査の初めとされる。 同年福岡県益田素平等からも螟害の問い合わせがあり、1878年(明治11年)赴任し、青森県のものが二化性であるのに対し、福岡県のものは三化性で別種と判明(後にニカメイチュウ(英語版)・サンカメイチュウ(英語版)と命名)、5月長崎県、11月熊本県で青森県と同様の駆除法を通達した。 1880年(明治13年)駒場農学校植医科教師となり、農書の出版や全国農談会での講演を行い、短冊苗代を奨励した。1881年(明治14年)6月栃木県、1882年(明治15年)5月東京府下板橋宿、1883年(明治16年)9月下総、10月神奈川県でも虫害調査・駆除法指導を行い、『農事月報』で逐次報告した。
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