観測初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 04:07 UTC 版)
1万年から2万年前に起こったとされる超新星爆発によりほ座超新星残骸が形成された。1976年にNASAの天文学者は南半球の人間がこの爆発を目撃して記録し、象徴的にしたのではないかと考えた。翌年に考古学者のジョージ・ミカノウスキー(英語版)はボリビアにあるネイティブアメリカンが残した古代の不可解な模様があることを思い出した。4つの円に2つの大きな円が配置された彫刻の模様である。小さい円はほ座とりゅうこつ座の星座の配置に似ている。大きい円はカペラと超新星残骸を象徴していると考え、ジョージ・ミカノウスキーはボリビアの原住民が超新星爆発を観測した可能性を示している。 文献記録の中では、中国の歴史書に記載された紀元前352年ごろの観測記録が最も古いとする説がある。中平2年(185年)、中国の天文学者は空に明るい星が出現し、8か月で消えたことを観測した。恒星のように輝きながら彗星とは異なり天を移動しなかったという。この観測記録は超新星の特徴と一致しており、超新星爆発の最古の観測記録と確認されている。 SN 185はローマ帝国の文献に記録された可能性もあるが、今のところは見つかっていない。RCW 86がSN 185の残骸ではないかとも言われており、X線の調査によると年代はだいたい合っている。 太元18年(393年)、中国で、現在のさそり座に新たな客星であるSN 393が出現したことが記録された。なお、未だ超新星と確認されていない事象としてはSN 386、SN 437、SN 827、SN 902 があり、これらは今のところ超新星残骸に同定されていないがその「候補」としては挙がっている。最初の観測記録以来2000年の間に中国の天文学者はこのような「候補」として挙がっているものを20個ほど記録しており、時代が下るとともにそれらの中にはイスラーム教圏やヨーロッパ、そしておそらくはインドなどの観測者によっても記録されるものがでてくる。 SN 1006は南天の星座、おおかみ座に現れた超新星である。歴史上で最も明るい超新星であり、記録は中国、エジプト、イラク、イタリア、日本、スイスと幅広い範囲で観測された。また、フランスやシリア、北アメリカでも観測された可能性が挙げられている。エジプトの医者、天文学者、占星術師であるアリー・ブン・リドワーンは明るさが月の約4分の1であると書き記している。現在の超新星残骸の地球からの距離は約7100光年であることが分かっている。 SN 1054は、アラビア、中国、日本で1054年に観測された。古代プエブロ人のペトログリフも観測に含まれるとすることもある。この超新星爆発はおうし座で出現し、かに星雲の超新星残骸になったとされる。光度は最高で 、金星の4倍ほどになり、日中でも目視できる状態が23日、夜中なら目視できる状態が653日(=約1.79年)続いたと考えられている。 カシオペア座に現れたSN 1181についてはあまり記録がなく、中国や日本でしか観測されていない。パルサーの3C 58が残骸ではないかといわれている。 デンマークの天文学者、ティコ・ブラーエはヴェン島で1572年に新たな星がカシオペア座に現れたことを発見し、これは後にSN 1572と言われた。この頃、ヨーロッパでは月や惑星は不変であるとするアリストテレス派が多かった。そのため、天体観測者はSN 1572が地球の大気圏内で起こったものだと主張していた。それに対しティコは、日々経っても視差が不変なことからアリストテレス派に反対した。ティコは観測記録を記したDe nova et nullius aevi memoria prius visa stella (後の"Concerning the new and previously unseen star")を1573年に出版した。また、この本のタイトルから激変星の1つである新星(Nova)が名付けられた。 一番最近、天の川銀河で発見された超新星はSN 1604であり、1604年10月9日に観測された。ヨハネス・ファン・ヒークもこの出現を発見したとする意見もあるが、ヨハネス・ケプラーが観測をDe Stella nova in pede Serpentariiとして公表した。ガリレオ・ガリレイなどはアリストテレス派に反対し、新星の視差を測定した。超新星残骸は1941年にウィルソン山天文台で確認された。
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