系列会社による多角化経営
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1961年、尾上は「これからはテレビの時代だ」とTV番組提供を命じる。小林亜星作曲の「ワンサカ娘」が誕生した。 1962年、本格的な婦人既製服時代の到来を予見して「レナウンルック(現ルック (アパレル))」を設立し、米国アーキン社と技術提携して7サイズ表示式の本格的プレタポルテを発表。東村山に建設したオートメーション採用の近代的な縫製工場は話題になった。 1963年、レナウン商事、レナウン工業ともに資本金5億円となり二部市場に株式上場。東洋一のメリヤス工場を東京立川に完成させた。スーパーストア向けのブランド「ルノン」を発表した。 1967年、組み合わせニット「イエイエ」発売。NET系テレビ番組『日曜洋画劇場』を提供。テレビCM「イエイエ」がACC(全日本CM協議会)でグランプリ、青島幸男を使った「シリーズ肌着」は金賞を受賞した。以後、毎年数々のCMが受賞し続け、宣伝界をリードした。 1967年、レナウン商事は「株式会社レナウン」に社名変更(11月)。 1968年、レナウン工業を吸収合併し、新しい「株式会社レナウン」となり(1月)、尾上清は社長に。資本金16億円、従業員数3,700人。アメリカ合衆国各都市を視察した尾上はドレスだけの専門店が流行していることに眼を見はり、日本で婦人ドレス専門店をつくる決心をかためた。5ヶ月間の準備期間の後に、ドレスギャラリー「レリアン」を設立した。日本で初めての女性のための女性だけの店の誕生だった。翌年「レナウン」一部市場で株式公開。会長・尾上清、社長・尾上俊郎となる。 1970年、かねてより紳士服分野への進出を意図していた尾上は、紳士服の名門企業「ニシキ」と提携して「レナウンニシキ」を設立した。 1971年、レナウン本社を原宿に新築移転した。 1972年、レナウンニシキは株式会社「ダーバン」に社名変更。イメージ・キャラクターにフランスの人気映画スター、アラン・ドロンを起用。一挙に知名度を上げたものの売上は目標を下回り、3期までの累積赤字は10億円に達した。尾上はダーバン全社員を集めて6時間にわたる訓示を行い「売上の火の玉になれ」と激励。翌年には2億7千万円の黒字に転じた。 1973年、イタリアンレストラン「レナウン・ミラノ」を設立、外食産業に乗り出した。韓国に「和信レナウン」(後に東一レナウンと社名変更)、ブラジルに「レナウン・ド・ブラジル」、アメリカに「レナウン・エンタープライズ」を設立するなど海外事業の積極的展開を図る。 1974年、レナウンの年商は1000億円を超えた。 1975年、尾上清は創業幹部たちと現役を引退し理事長になる。以後、レナウンの役員会には出席していない。レナウンは本間が会長、伊藤が社長になる。 1976年、「レナウン・フーズ」を設立、加工食品業界への進出を図る。 1977年、ダーバンが二部市場に株式上場し、その2年後には一部市場に株式上場。 1979年、レナウンは伊藤が会長に、稲川博通が社長になる。「レナウン・ホームズ」を設立、衣食住の経営多角化を図る。1982年、伊藤と前会長の本間が死去。 1988年、尾上は前年の夏にハワイで心臓の手術を受けたが、冬になって病状は悪化し日本医科大学付属病院に入院。2月9日未明、肺炎のため死去。享年76。この時点でレナウン・グループは、グループ51社、売上合計4000億円、資本金合計300億円、従業員合計2万2,000人に達していた。
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