第2の哨戒 1942年2月 - 3月・喪失
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「パーチ (SS-176)」の記事における「第2の哨戒 1942年2月 - 3月・喪失」の解説
2月3日、パーチは2回目の哨戒でケンダリ、セレベス島およびジャワ海方面に向かった。セレベス方面では、港や攻撃位置となる狭い入り口の通過を試みた。日本軍との一週間近い接触で情報を得たパーチは、目標を求めて南へ移動する。2月25日夜、パーチはケンダリ沖で夜間浮上攻撃を行って大型商船に攻撃を行うが、パーチは駆逐艦の反撃で司令室前方の気密室上部構造を破壊され、無線アンテナを破損したため一時的に通信が不能になった。乗組員は勇敢にも敵の厳重な哨戒の中、夜にデッキの修理を行い、急速潜航で逃れることが出来た。その後パーチはジャワ海に向かった。 3月1日の夜、パーチはオランダ領東インド諸島、ジャワ島のスラバヤ北西55キロ地点を浮上航行し、スラバヤ西部に陸上部隊を上陸させる日本軍船団に攻撃を開始しようと試みたが攻撃できなかった。翌3月2日5時49分頃、パーチは駆逐艦潮と漣に発見された。潮と漣は、スラバヤ沖海戦で沈没した重巡洋艦エクセター (HMS Exeter, 68) の生存者を捜索しているところであった。潮の爆雷攻撃のためパーチは潜航を余儀なくされ、41メートルの深度に潜航した。更なる爆雷攻撃によりパーチは右舷モーターを損傷し、船体広範囲にわたる浸水を生じる。また、魚雷3本が誤作動で誤発射してしまった。応急修理後パーチは10時頃に水面に浮上したが、再び駆逐艦の攻撃を受け潜航。燃料漏れと損傷したバラストタンクからの気泡で、駆逐艦はパーチを撃沈したものと思い、次の目標を探してその場を立ち去り、パーチは戦場を離脱することが可能となった。デッキは冠水し、機能するエンジンは一台だけであったが、乗組員はあらゆる修理を行ったが不具合は収まらず、ハート艦長は乗組員に状況が許せば自沈することを告げた。乗組員は私物を整頓して最後の時に備えていた。 3月3日早朝、パーチは試験的に潜航を試みたが最悪一歩手前の結果となった。熟練者による操縦と幸運によって浮上することができたが、ダメージによりもはや潜航することが不可能であることは明白だった。この時、すでに日本軍の2隻の巡洋艦と3隻の駆逐艦に発見されていた。駆逐艦の中に、前日交戦した潮もいた。6時59分、パーチは潮から砲撃を受け、たまたま艦外で外気を吸っていた乗組員は砲撃に驚いて海中に飛び込んだ。パーチのダメージは前日、前々日と受け続けており絶望的であった。傷だらけのパーチは魚雷も発射できず備砲も撃てず、艦内温度と噴出ガスの濃度は限界を超えていた。ここに来てハート艦長は艦の放棄を命じ、全ての弁が開けられてパーチは自沈を始めた。時に7時16分。艦を沈める努力によりケネス・G・シャハト中尉が海軍十字章を受章した。潮はカッターを下ろしてパーチの全乗組員を救助し捕虜とした。5名の士官と54名の乗組員は、病院船天応丸(オランダ船オプテンノート、6,076トン)に収容され、ハート艦長以下の幹部は重巡洋艦足柄で尋問を受けた。その後、士官と乗組員は大船収容所に移され、一部は足尾銅山で強制労働を強いられた。6名が大船収容所で栄養失調のため死亡したが、残りは戦後帰国した。パーチは1942年6月24日に除籍された。 パーチは第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章を受章した。 2006年11月23日、ジャワ島沖での潜水調査を行っていた国際潜水チームが偶然にパーチの船体を発見した。同チームはエクセターの船体撮影を行っていた。 2016年、パーチの船体がなくなっているのが判明し、金属スクラップ目当てに引き上げられたものと報道された。
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