第2の哨戒 1942年4月 - 6月
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「トートグ (潜水艦)」の記事における「第2の哨戒 1942年4月 - 6月」の解説
4月24日、トートグは2回目の哨戒でマーシャル諸島方面に向かった。4月26日10時ごろ、トートグはジョンストン島近海を航行中、潜望鏡を発見した。トートグは相手に対して有利な態勢に持ち込み魚雷1本を発射、命中して相手は沈没した。相手は呂30であろうと判断され、この戦果は公認された。しかし、当の呂30はこの少し前に除籍されたばかりであり、トートグが発見して沈めた物体の正体は不明である。担当海域に到着直後、トートグは司令部から、至急トラック諸島近海に急行するよう命令を受けた。珊瑚海海戦で損傷した空母翔鶴と無傷の空母瑞鶴を中心とする日本艦隊がトラックに向かっており、特に翔鶴は相当な大損害を被ったものと司令部では判断していたため、これを撃沈すべく "Wounded Bear" (手負い熊)と称する作戦を行うこととした。しかし、翔鶴の損傷度合いを見込み違いしていたせいで、トートグと他の潜水艦、グランパス (USS Grampus, SS-207) 、ガー (USS Gar, SS-206) 、グリーンリング (USS Greenling, SS-213) はいずれも翔鶴に去られてしまい、肩透かしを食らった。翔鶴は5月11日にトラックを出航したが、トートグはこれにも気付かなかった。5月15日、トートグはトラック南方で特設運送船五洋丸(五洋商船、8,467トン)に対して魚雷2本を発射。1本が命中して五洋丸は中破した。しかし、もう1本が円を描いて不安定な動きをしたので、トートグは自艦に命中するの防ぐべく深く潜航することを余儀なくされた。この頃、トートグはウルトラ情報(英語版)により、付近にトラックへ向かう4隻の日本の潜水艦がいることを知らされた。この4隻はシドニー襲撃に参加する伊22、伊24、伊27と伊28である。2日後の5月17日朝、トートグは情報どおり潜水艦が向かってくるのを確認。最初に来た潜水艦と2番目の潜水艦は取り逃がし、特に0648に2番目の潜水艦に向けて発射した魚雷は、早期爆発を起こしてしまった。3番目にやってきたのが伊28であり、トートグは司令塔に「イ28」と書かれているのがはっきり分かるほど接近し、1101に魚雷2本を発射。うち1本が伊28に命中し、伊28は航行不能となる。右舷に著しく傾斜する伊28が後部から反撃の魚雷2本を発射してきたと判断したトートグは水深46mの位置に逃れた後、1107に730mの距離でとどめの魚雷を発射。魚雷は伊28を木っ端微塵にし、伊28の破片や乗組員の肉片などが降り注いだ。5月22日夜、トートグは北緯06度10分 東経151度10分 / 北緯6.167度 東経151.167度 / 6.167; 151.167の地点でトラックから出てきた2隻の貨物船を発見し、特設給炭油船三江丸(大連汽船、5,461トン)に対して魚雷を発射し、命中させて撃破した。3日後の5月25日18時30分ごろ、トートグは北緯04度05分 東経144度11分 / 北緯4.083度 東経144.183度 / 4.083; 144.183の地点でラバウルから神戸に向かっていた特設運送船彰化丸(大阪商船、4,467トン)を発見。彰化丸は前日まで他の貨物船と船団を組んでいたが、護衛艦が去ったので独航していたものであった。トートグは彰化丸に魚雷1本を命中させ、彰化丸は5分で沈没した。トートグはこの哨戒で6隻19,500トンの戦果を挙げたと主張したが、戦後のJANAC(英語版)の調査で3隻7,500トンに下方修正された。6月11日、トートグは47日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
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