第2の哨戒 1942年8月・マキン奇襲とは? わかりやすく解説

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第2の哨戒 1942年8月・マキン奇襲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/03 07:53 UTC 版)

アルゴノート (SS-166)」の記事における「第2の哨戒 1942年8月・マキン奇襲」の解説

マキン奇襲」も参照 8月8日アルゴノート2回目の哨戒ギルバート諸島方面向かった8月入りソロモン諸島方面ではアメリカ軍ガダルカナル島上陸手始め本格反攻作戦入ったので、その目そらしとして防備手薄なギルバート諸島への奇襲立案された。作戦太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将からアルゴノートおよびノーチラスに対して命じられアルゴノートノーチラスマキン環礁222名の海兵隊奇襲上陸させることとなった。2隻の潜水艦には第2襲撃大隊、A中隊およびB中隊乗艦させ、アルゴノートには部隊指揮官エヴァンズ・F・カールソン英語版海兵中佐が、ノーチラスには奇襲作戦指揮官ジョン・M・ヘインズ海軍中佐それぞれ乗り込んでマキン島向かった航海厳しく、ほとんどの海兵隊員船酔いしたノーチラス8月16日早朝マキン環礁沖の会合点に到着したのに続いてアルゴノート夜に会合点に到着し8月17日3時30分、海兵隊16隻のゴムボート分乗して上陸開始した。彼らのゴムボート水浸しとなり、ほとんどの船外機沈んでしまった。海兵隊日本軍背後上陸する予定だったものが、多く正面上陸してしまった。それでも日本軍は約70名と少数かつ無警戒であったため、かろうじてカールソン隊は日本軍の反撃撃退することができた。カールソン海兵中佐航空機飛来住民情報日本増援部隊やってくる判断して17日中の撤退開始。しかし、荒天隊員疲労撤退ままならず、7隻のゴムボートおよび100名弱の隊員アルゴノートノーチラスにたどり着いただけであり、アルゴノートノーチラスは島の隊員激励信号を送るのみであった。島に残ったカールソン海兵中佐状況観念して一時降伏用意をする珍事もあったが、8月18日真夜中まで日本軍守備隊がすでに壊滅していることが判明した安心したカールソン隊は島内無線局燃料その他の物資破壊し作戦目的一つである重要資料捜索をしたが大きな成果得られなかった。日本軍の目をそらす狙い失敗終わった部隊戦死者行方不明者30名だった。はぐれた9名の隊員を除く隊員残存ゴムボート使ってマキン環礁脱出しアルゴノートノーチラス収容された。8月26日アルゴノート18日間の行動終えて真珠湾帰投した。 アルゴノート9月3日から9日までオーシャン島対す特別任務従事しその後11月13日まで整備が行われた。9月22日アルゴノートAPS-1輸送潜水艦)へ艦種変更される。アルゴノートは公式には SS-166 の船体番号与えられなかった。しかしその船体番号アルゴノート栄誉たたえて他の艦に使われなかった。11月24日アルゴノート真珠湾出港その道中でミリ環礁オーシャン島偵察行いオーシャン島に対して偵察後で6インチ砲による艦砲射撃行った12月9日アルゴノートエスピリトゥサント島入港した

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第2の哨戒 1942年8月・マキン奇襲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/18 05:54 UTC 版)

ノーチラス (潜水艦)」の記事における「第2の哨戒 1942年8月・マキン奇襲」の解説

マキン奇襲」も参照 8月8日ノーチラス2回目の哨戒ギルバート諸島方面向かった8月入りソロモン諸島方面ではアメリカ軍ガダルカナル島上陸手始め本格反攻作戦入ったので、その目そらしとして防備手薄なギルバート諸島への奇襲立案された。作戦太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将からノーチラスおよびアルゴノート (USS Argonaut, SS-166) に対して命じられノーチラスアルゴノートマキン環礁222名の海兵隊奇襲上陸させることとなったノーチラスには奇襲作戦指揮官ジョン・M・ヘインズ海軍中佐が、アルゴノートには部隊指揮官エヴァンズ・F・カールソン英語版海兵中佐それぞれ乗り込み部隊は2隻に分乗した。部隊中にはアメリカフランクリン・ルーズベルト大統領長男ジェームズ・ルーズベルト海兵中佐もいた。 ノーチラス8月16日早朝予定会合点に到着し夜になってアルゴノート会合成功部隊はただちに16隻のゴムボート分乗しマキン環礁向かっていった。マキン環礁では3時15分ごろから奇襲部隊マキン守備隊交戦始まっていたが、ノーチラスからは様子うかがえなかった。朝7時になってカールソン中佐からマキン環礁ウキアゴン岬にいると思われる守備隊砲撃撃滅するよう要請があり、ノーチラスはさっそく砲撃行い、敵拠点監視艇などを破壊したものと思われた。10時を過ぎ、日本の航空機守備隊援護奇襲部隊撃滅飛来してきたのを見てノーチラス潜航その後浮上した1130分と12時55分にも攻撃受けた陸上ではカールソン中佐航空機飛来住民情報日本増援部隊やってくる判断して17日中の撤退開始。しかし、荒天隊員疲労撤退ままならず、7隻のゴムボートおよび100名弱の隊員ノーチラスアルゴノートにたどり着いただけであり、ノーチラスアルゴノートは島の隊員激励信号を送るのみであった。 翌8月18日にも撤退作業続けられたが、零式水上偵察機攻撃潜航余儀なくされたので日没後まで中断された。この間、島に残ったカールソンらは、自分たちは見殺しにされたと勘違いして降伏用意をしたが、ここに来てようやくマキン守備隊がいなくなっていたことに気づいて物資破壊や重要資料捜索などを行ったはぐれた9名の隊員を除く隊員残存ゴムボート使ってマキン島脱出収容された。カールソン隊の損害戦死不明30名だった。8月25日ノーチラス18日間の行動終えてアルゴノートとともに真珠湾帰投作戦日本軍守備隊壊滅させて戦術的勝利をおさめたが、対空砲など設備破壊は不十分で、暗号書や捕虜獲得にも失敗し日本軍の目をそらす狙い果たせなかった。しかも日本側は教訓によりこの方面の防備著しく強化したため、のちのガルヴァニック作戦、特にタラワの戦いアメリカ軍大い苦しめられることとなる。

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