第2の哨戒 1942年8月・マキン奇襲
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「アルゴノート (SS-166)」の記事における「第2の哨戒 1942年8月・マキン奇襲」の解説
「マキン奇襲」も参照 8月8日、アルゴノートは2回目の哨戒でギルバート諸島方面に向かった。8月に入り、ソロモン諸島方面ではアメリカ軍がガダルカナル島上陸を手始めに本格反攻作戦に入ったので、その目そらしとして防備が手薄なギルバート諸島への奇襲が立案された。作戦は太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将からアルゴノートおよびノーチラスに対して命じられ、アルゴノートとノーチラスはマキン環礁に222名の海兵隊を奇襲上陸させることとなった。2隻の潜水艦には第2襲撃大隊、A中隊およびB中隊を乗艦させ、アルゴノートには部隊指揮官エヴァンズ・F・カールソン(英語版)海兵中佐が、ノーチラスには奇襲作戦指揮官ジョン・M・ヘインズ海軍中佐がそれぞれ乗り込んでマキン島に向かった。航海は厳しく、ほとんどの海兵隊員が船酔いした。 ノーチラスが8月16日早朝にマキン環礁沖の会合点に到着したのに続いて、アルゴノートも夜に会合点に到着し、8月17日3時30分、海兵隊は16隻のゴムボートに分乗して上陸を開始した。彼らのゴムボートは水浸しとなり、ほとんどの船外機が沈んでしまった。海兵隊は日本軍の背後に上陸する予定だったものが、多くは正面に上陸してしまった。それでも日本軍は約70名と少数かつ無警戒であったため、かろうじてカールソン隊は日本軍の反撃を撃退することができた。カールソン海兵中佐は航空機の飛来と住民情報で日本の増援部隊がやってくると判断して17日中の撤退を開始。しかし、荒天と隊員の疲労で撤退はままならず、7隻のゴムボートおよび100名弱の隊員がアルゴノートとノーチラスにたどり着いただけであり、アルゴノートとノーチラスは島の隊員に激励の信号を送るのみであった。島に残ったカールソン海兵中佐は状況に観念して、一時降伏の用意をする珍事もあったが、8月18日の真夜中までに日本軍守備隊がすでに壊滅していることが判明した。安心したカールソン隊は島内の無線局や燃料、その他の物資を破壊し、作戦目的の一つである重要資料の捜索をしたが大きな成果は得られなかった。日本軍の目をそらす狙いも失敗に終わった。部隊の戦死者・行方不明者は30名だった。はぐれた9名の隊員を除く隊員は残存のゴムボートを使ってマキン環礁を脱出し、アルゴノートとノーチラスに収容された。8月26日、アルゴノートは18日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。 アルゴノートは9月3日から9日までオーシャン島に対する特別任務に従事し、その後は11月13日まで整備が行われた。9月22日、アルゴノートは APS-1 (輸送潜水艦)へ艦種変更される。アルゴノートは公式には SS-166 の船体番号を与えられなかった。しかしその船体番号はアルゴノートの栄誉をたたえて他の艦に使われなかった。11月24日、アルゴノートは真珠湾を出港。その道中でミリ環礁とオーシャン島の偵察を行い、オーシャン島に対しては偵察の後で6インチ砲による艦砲射撃を行った。12月9日、アルゴノートはエスピリトゥサント島に入港した。
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第2の哨戒 1942年8月・マキン奇襲
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「ノーチラス (潜水艦)」の記事における「第2の哨戒 1942年8月・マキン奇襲」の解説
「マキン奇襲」も参照 8月8日、ノーチラスは2回目の哨戒でギルバート諸島方面に向かった。8月に入り、ソロモン諸島方面ではアメリカ軍がガダルカナル島上陸を手始めに本格反攻作戦に入ったので、その目そらしとして防備が手薄なギルバート諸島への奇襲が立案された。作戦は太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将からノーチラスおよびアルゴノート (USS Argonaut, SS-166) に対して命じられ、ノーチラスとアルゴノートはマキン環礁に222名の海兵隊を奇襲上陸させることとなった。ノーチラスには奇襲作戦指揮官ジョン・M・ヘインズ海軍中佐が、アルゴノートには部隊指揮官エヴァンズ・F・カールソン(英語版)海兵中佐がそれぞれ乗り込み、部隊は2隻に分乗した。部隊の中にはアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領の長男のジェームズ・ルーズベルト海兵中佐もいた。 ノーチラスは8月16日早朝に予定の会合点に到着し、夜になってアルゴノートと会合に成功。部隊はただちに16隻のゴムボートに分乗し、マキン環礁に向かっていった。マキン環礁では3時15分ごろから奇襲部隊とマキン守備隊の交戦が始まっていたが、ノーチラスからは様子がうかがえなかった。朝7時になってカールソン中佐からマキン環礁ウキアゴン岬にいると思われる守備隊を砲撃で撃滅するよう要請があり、ノーチラスはさっそく砲撃を行い、敵拠点や監視艇などを破壊したものと思われた。10時を過ぎ、日本の航空機が守備隊の援護と奇襲部隊の撃滅で飛来してきたのを見てノーチラスは潜航。その後浮上したが11時30分と12時55分にも攻撃を受けた。陸上ではカールソン中佐が航空機の飛来と住民情報で日本の増援部隊がやってくると判断して17日中の撤退を開始。しかし、荒天と隊員の疲労で撤退はままならず、7隻のゴムボートおよび100名弱の隊員がノーチラスとアルゴノートにたどり着いただけであり、ノーチラスとアルゴノートは島の隊員に激励信号を送るのみであった。 翌8月18日にも撤退作業は続けられたが、零式水上偵察機の攻撃で潜航を余儀なくされたので日没後まで中断された。この間、島に残ったカールソンらは、自分たちは見殺しにされたと勘違いして降伏の用意をしたが、ここに来てようやくマキン守備隊がいなくなっていたことに気づいて、物資の破壊や重要資料の捜索などを行った。はぐれた9名の隊員を除く隊員は残存のゴムボートを使ってマキン島を脱出、収容された。カールソン隊の損害は戦死・不明30名だった。8月25日、ノーチラスは18日間の行動を終えてアルゴノートとともに真珠湾に帰投。作戦は日本軍守備隊を壊滅させて戦術的勝利をおさめたが、対空砲など設備の破壊は不十分で、暗号書や捕虜の獲得にも失敗し、日本軍の目をそらす狙いも果たせなかった。しかも日本側は教訓によりこの方面の防備を著しく強化したため、のちのガルヴァニック作戦、特にタラワの戦いでアメリカ軍は大いに苦しめられることとなる。
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