第2の哨戒 1943年11月 - 10月
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「スケート (潜水艦)」の記事における「第2の哨戒 1943年11月 - 10月」の解説
11月15日、スケートは2回目の哨戒でトラック諸島方面に向かった。11月30日、スケートは5隻の軍艦のマストを視認する。これは、トラックから横須賀に向かう途中の空母瑞鳳と雲鷹、冲鷹、重巡洋艦摩耶、これらを護衛する駆逐艦4隻からなる艦隊であった。スケートは1,400メートルの距離から雲鷹に向けて3本の魚雷を放射状に発射したが、駆逐艦の爆雷攻撃を受け潜航を余儀なくされた。魚雷は雲鷹の艦尾をかすめ去って命中しなかった。12月21日、スケートはトラック北方140海里の地点で、応急タンカー照川丸(五洋商船、6,432トン)を撃沈した。この頃、スケートをはじめとするトラック近辺のアメリカ潜水艦に対し、「戦艦大和がやって来るので待ち伏せよ」との指令が出ていた。その司令の末尾には「よいクリスマスプレセントを」という文言も添えられていた。4日後の12月25日の明け方ごろ、スケートはトラックの180海里地点でその「クリスマスプレゼント」たる大和と護衛の駆逐艦3隻をレーダーで探知した。距離は25,000メートルほどあったが、大和がジグザグ航行を行いスケートの射程内に入ってきた。スケートは艦尾発射管から魚雷4本を発射し、うち1本が大和の艦体後部に命中した。当の大和では軽微な振動しか感じなかったが、護衛の駆逐艦から「水柱を見た」「重油が流れ出ている」との報告があって、初めて魚雷が命中したことを知った。大和は右に4度傾斜したが航行に支障はなく、トラック入港後調査が行われ、バルジに破口が見られたほか装甲板を支えていた支柱が被雷のショックで緩んでいたことも判明した。1944年1月7日、スケートは54日間の行動を終えて真珠湾に帰投。艦長がウィリアム・P・グラナー(アナポリス1935年組)に代わった。
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