第2の哨戒 1942年1月 - 3月
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「トラウト (SS-202)」の記事における「第2の哨戒 1942年1月 - 3月」の解説
1942年1月12日、トラウトは2回目の哨戒でコレヒドール島に向かった。この哨戒は、日本軍に包囲されつつあるコレヒドール島に3,500発の弾薬を輸送する特別任務であった。1月16日にミッドウェー島で給油したのち、コレヒドール島に急行した。1月27日、トラウトは.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯25度50分 東経139度45分 / 北緯25.833度 東経139.750度 / 25.833; 139.750の小笠原諸島近海で左舷前方に灯火を発見。潜航し距離1,400メートルで魚雷を発射したが命中しなかった。トラウトは目標まで550メートルに接近し観測すると、相手はどうやら駆逐艦であり、トラウトはこれを避けるようにして航行を続けた。2月3日夕刻、トラウトはコレヒドール島沖で出迎えた魚雷艇PT-34の援護を受けてコレヒドール島南岸の船着場に到着した。トラウトは託送品の弾薬を陸揚げし、燃料と2本の魚雷を搭載。さらにバラストを求めた。あいにく砂袋もコンクリートの袋も持ち合わせがなかったが、この時、マニュエル・ケソン大統領のフィリピン共和国の通貨準備金として用意され、日本軍の手から避難させるべくフィリピンの銀行12行から持ち出されていた金の延べ棒20トンとペソ銀貨の存在を知り、それらをバラスト代わりに積み込むこととした。延べ棒は紙幣から兌換されたものであり、これらは夜明け前に証券やメール等とともにトラウトに積み込まれた。一種の宝船と化したトラウトは哨戒艦の誘導により日本側が敷設した機雷原を抜け、南シナ海に出ることに成功。2月10日、トラウトは東シナ海に入った。その日の午後、トラウトは基隆沖で特設運送船中和丸(日東鉱業、2,719トン)を発見。距離1,800メートルから魚雷を発射したが命中しなかった。トラウトはもう2本発射し、こちらは命中。25分後、トラウトのソナーは中和丸のボイラーが爆発する音を4つ聴取した。トラウトは小笠原諸島方面に進路を取ったが、直後に別の船を距離2,700メートルの位置に発見。2本の魚雷を発射したが、命中しなかった。敵が反撃してきたので、トラウトは一旦深度37メートルに潜ったのち、潜望鏡深度に戻して3番目の魚雷を目標に向けて発射。トラウトはフルスピードで航行する別の船も確認したが、それを攻撃する機会はなかった。それでも、トラウトは200トンの哨戒艇を撃沈したと判断された。3月3日、トラウトは50日間の行動を終えて真珠湾に帰投。貴重な積荷は軽巡洋艦デトロイト (USS Detroit, CL-8) に移された。 トラウトはこの任務の成功により、艦には殊勲部隊章(英語版)が、フェノー艦長には海軍十字章と陸軍から殊勲十字章が、そしてトラウトの乗組員全員にはシルバースターがそれぞれ授与された。
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