第三セクター化へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 05:29 UTC 版)
岡多線は岡崎 - 新豊田間で部分開業したが、当時の運転本数は13往復/日で、年間運輸収入約3億円に対し、約50億円/年の鉄道公団への借損料を払っていたため、営業係数は672と大赤字を記録していた。1981年(昭和56年)4月時点における平均断面輸送密度は国鉄再建法により廃線対象となる基準の4,000人/日を下回る2,757人/日で、輸送人員は190万人/年前後で伸び悩んでいた。また、岡多線として開業時から行われていた岡崎 - 北野桝塚間のトヨタ自動車の自動車輸送は1984年(昭和59年)末限りで終了したため、貨物需要も当て込むことができなくなった。このため、岡多線(岡崎 - 新豊田間)の赤字は20億円/年となっており、国鉄は特定地方交通線第3次廃止対象線区として廃止承認を申請した。 さらに鉄道公団が主要幹線(C線)として建設し、1984年度(昭和59年度)中の開業を目指して建設を進めていた「岡多・瀬戸線」[岡多線(新豊田 - 瀬戸間)および瀬戸線:(瀬戸 - 高蔵寺間)]も、沿線の住宅開発が十分に進まなかったことなどから、平均断面輸送密度が3,672人/日と試算され、廃止・転換対象の基準(4,000人/日)を下回ることが予想されていた。前記の輸送密度は、名古屋近郊都市を結ぶ短絡線としての効果が(そもそも中央線高蔵寺方面と東海道線岡崎以東の、沿線間の短絡需要自体がそれほどないのではあるが)発揮できないことを意味した。また、新豊田 - 高蔵寺間を国鉄運営路線として開業させた場合、約65億円/年の借損料を鉄道公団に払わなければならなくなることや、「地方の赤字路線を廃止している一方で、『岡多・瀬戸線』だけを新たに開業するのはおかしい」との批判も予想されたため、国鉄常務理事・岩崎雄一は「仮に輸送密度の予測が5,000 - 6,000人/日になったり、地元が第三セクター化を拒否したりしても、国鉄が引き受ける意思はない」と表明していた。 これらの事情から、国鉄は1983年(昭和58年)8月ごろから「岡多・瀬戸線」の第三セクター化に向けた検討を始め、1984年(昭和59年)春には愛知県に対し、第三セクター化をにおわす話をしていた。そして同年7月17日、国鉄は「岡多・瀬戸線」の沿線自治体(愛知県および岡崎・豊田・瀬戸・春日井の各市)に対し、「岡多・瀬戸線」(岡崎 - 高蔵寺間)を第三セクターで運営するよう申し入れた。また、同時に瀬戸線(高蔵寺 - 枇杷島間)についても着工を見合わせ、凍結する方針を決めた。当時、国鉄再建法に基づいて廃止又は第三セクターへの移行の方式が打ち出されていた特定地方交通線以外で、一部を既に国鉄が運営している線区に対し、第三セクター方式導入が打ち出されたことは異例だった。また、それまで廃止・第三セクター移行の方針が打ち出されていた路線はすべて地方交通線で、「幹線」区分で建設されていた路線について第三セクター化が提案された例は異例だった。鉄道公団名古屋支社は同月20日までに、公団本社および運輸省などと討議した結果、「岡多・瀬戸線」(岡崎 - 高蔵寺間)の運営主体が決定するまで、新豊田 - 高蔵寺間の工事を一時中断する方針を決めた。 当初、自治体は「国鉄による早期開業を」と強く要請したが、国鉄側の回答は変わらなかったため、愛知県知事および沿線4市町は、プロジェクトチームを設置し、第三セクター化に向けて積極的な取り組みを進めていた。しかしそのさなか、1985年(昭和60年)1月には国鉄が「岡多線(岡崎 - 新豊田間)を国鉄の子会社で運営する」という再建計画案を打ち出したことから、愛知県など地元側は「2階に上がってはしごを外されたようなもの」と反発。結局、国鉄は名古屋鉄道管理局長名で同年3月に「基本方針に変わりはない」という文書を愛知県知事らに提出した。結果、地元自治体はまず「『岡多・瀬戸線』は地域にとって必要不可欠であり、廃線にしない」「開業に向けて一致協力して努力する」ことで合意し、1985年8月19日には第三セクター化受け入れで合意。1986年(昭和61年)には、営業を受け入れるための第三セクターとして「愛知環状鉄道」を設立した。また鉄道公団に支払う賃借料については、国鉄分割民営化後に国鉄清算事業団が継承し、地元への負担は求めないことで決着をみた。これにより、岡多線(新豊田 - 瀬戸市間)および瀬戸線(瀬戸市 - 高蔵寺間)の建設は鉄道公団によって再開され、岡多線の既存区間とともに愛知環状鉄道によって継承されることとなった。なお瀬戸線のうち、愛知環状鉄道線として開業した瀬戸 - 高蔵寺間は1987年(昭和62年)に国鉄としての基本計画は消滅し、勝川 - 枇杷島間は国鉄分割民営化で東海旅客鉄道(JR東海)への継承が決まったものの、同社の子会社東海交通事業が城北線として開業させている。 なお、1979年6月に運輸省の決定で建設が凍結されたままだった岡多線の瀬戸 - 多治見間(AB線・約20 km)については、1985年(昭和60年)10月16日に開かれた関連2組織の合同定期総会で、それまで建設を求めていた岐阜県と関係6市町(多治見市など)が建設を事実上断念(建設推進のための総会・陳情活動の見合わせ)する方針を決定。鉄道敷設法の廃止に伴い計画そのものが消滅した。国鉄バスとして先行開業した瀬戸市 - 多治見駅前間に運行されていたJR東海バスの瀬戸北線は、2002年(平成14年)に下半田川 - 多治見駅前間を東濃鉄道(東鉄バス)に譲渡、下半田川 - 品野間を廃止し、2009年(平成21年)までに残る区間も名鉄バスが代替運行する形で、全線廃止となっている。
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