福田 (滑川町)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/22 15:34 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動福田 | |
---|---|
滑川町役場 | |
北緯36度3分57.39秒 東経139度21分37.37秒 / 北緯36.0659417度 東経139.3603806度 | |
国 |
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都道府県 |
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郡 | 比企郡 |
市町村 | 滑川町 |
人口 | |
• 合計 | 1,401人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
355-0803[2] |
市外局番 | 0493[3] |
ナンバープレート | 熊谷 |
福田(ふくだ)は、埼玉県比企郡滑川町の大字[4]。郵便番号は355-0803[2]。
地理
滑川町北部に位置し、滑川と中堀川に挟まれた開析谷の低地及び丘陵地にあたる[4]。北東で土塩、東で山田、南東で羽尾、南で中尾、南西で伊古、西で和泉・菅田、北西で熊谷市小江川と接する。滑川町内の行政区では「第1区(上福田)」と「第2区(下福田)」を合わせた地域が大字福田にあたる。東部は国営武蔵丘陵森林公園、西部は高根カントリークラブのそれぞれ一部となる。地内ではかつて字大木で大谷石に似た荒粒の凝灰岩が切り出され、「福田石」として販売されていた[5]。この福田石は淡緑色の斜長流紋岩質凝灰岩で、比企丘陵を構成する第三紀・中新世の福田層に属する[5]。加工が容易なため石垣の切石や石燈籠などに用いられたが1971年(昭和46年)頃以降は採掘は中止されている[5][6]。現在採掘場跡は森林霊園の納骨堂として利用されている[5][6]。
河川
- 滑川
- 中堀川
湖沼
周辺は埼玉県内でも溜め池の多い地域であり、福田地内にも多くの溜め池、湖沼が存在する。
- 福田大沼
- 大久保沼
- 長沼
- 西沼
- 山城沼
- 金子沼
- 笠沼
- 中在家沼
- 宮入沼
- 下沼
- 上沼
- 皿型沼
- 笹沼
- 土井城入沼
- 鼻田沼
- 梅ヶ入沼
- 新沼
- 南谷沼 - 町内最後のミヤコタナゴ生息確認地。
また、以下の沼は国営武蔵丘陵森林公園内に位置する。
- がっき沼
- 紺屋前沼
- 分山沼
- 栗谷沼
- 城口沼
- 長沼
- 城沼
- 新沼
山岳
- 高根山 - 標高105m。高根カントリークラブの裏山にあたる。
小字
- 第1区(上福田)
- 両表
- 大木
- 下向
- 下中郷
- 第2区(下福田)
- 馬場
- 小川谷
- 中在家
- 円正寺
歴史
縄文時代より集落が存在し、縄文中後期・古墳時代前後期の集落跡である馬場遺跡や、古墳前後期の集落跡である円正寺・中在家・古姓前・東両表・大木・小川谷・久保田遺跡、古墳後期の台原・矢崎・栗谷・粕沢古墳群が見られる[4]。戦国時代には既に比企郡に属し、明応4年(1495年)正月18日銘の真福寺鰐口に「奉寄進武州比企郡福田郷 別所真福寺鰐口(中略)檀那同所四郎太郎」との記述がみられ、また後北条氏の所領役帳である『小田原衆所領役帳』には小田原北条氏の家臣であり他国衆の上田案独斎の所領として「卅一貫六百卅七文 同 福田塩川分 同(比企郡 福田塩川分 卯検見)」とあり、弘治元年卯に検地を行ったことがわかる[4]。また江戸時代に書かれた『新編武蔵風土記稿』によれば、古くから水房庄(水房荘)・松山領に属したといわれる[8][4]。福田村は徳川家康が江戸入府の後は直轄領であったが文禄元年(1592年)より旗本酒井作右衛門重勝の知行として賜る[8]。以降代々作右衛門の知行となったが、天保14年(1843年)に天領となり、翌年の弘化元年(1844年)に一部が川越藩領になった。嘉永元年(1848年)より全域が川越藩領になったが、明治2年(1869年)には全域が上野前橋藩領となった[4]。「元禄郷帳」によれば村高は1,127石余[4]。幕末から明治初期の主な産品は米・大麦・絹・木綿・薪[4]。また、この頃の小名として両表・中郷・湯谷が挙げられる[4]。1889年(明治22年)4月1日町村制施行により福田村は近隣の山田村・土塩村・和泉村・菅田村と合併し新たに成立した福田村の大字福田となり、村役場が置かれた[9][4]。1954年(昭和29年)11月3日には福田村の宮前村との合併により、滑川村の大字に、1984年(昭和59年)11月3日には滑川村の町制施行により滑川町の大字となった。滑川の氾濫により1947年(昭和22年)のキャサリン台風、1949年のキティ台風、1966年(昭和41年)の台風4号・26号の際に被害を受けている[4]。
地名の由来
この地に土着した源義賢の家臣8人の子孫が13世紀前半の天福年間に義賢の霊を祀り、天福の福と田圃の田をとって「福田」と称したといわれる[4][8]。
沿革
- 文禄元年(1592年) - 旗本酒井作右衛門重勝の知行となる。
- 天保14年(1843年) - 天領となる。
- 弘化元年(1844年) - 一部が川越藩領となる。
- 嘉永元年(1848年) - 全域が川越藩領となる。
- 明治2年(1869年) - 全域が上野前橋藩領となる。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により近隣の山田村・土塩村・和泉村・菅田村と合併し新たに成立した福田村の大字福田となる。
- 1954年(昭和29年)11月3日 - 福田村と宮前村との合併により滑川村の大字となる。
- 1984年(昭和59年)11月3日 - 滑川村の町制施行により滑川町の大字となる。
世帯数と人口
2017年(平成29年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
字 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
下福田 | 307世帯 | 332人 |
上福田 | 191世帯 | 552人 |
計 | 498世帯 | 1,401人 |
小・中学校の学区
町立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[10]。
番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|
全域 | 滑川町立福田小学校 | 滑川町立滑川中学校 |
交通
鉄道
地内に鉄道は引かれていない。
バス
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道路
- 埼玉県道47号深谷東松山線 - 一部は熊谷東松山道路(旧・熊谷東松山有料道路)
- 埼玉県道173号ときがわ熊谷線 - 一部は熊谷東松山道路(旧・熊谷東松山有料道路)
- 埼玉県道307号福田鴻巣線
寺社
- 真福寺 - 天台宗の寺院。山号は石水山[8]。
- 千光寺別院
- 成安寺 - 曹洞宗の寺院。山号は心田山[8]。
- 邨社淡洲神社 - 土塩にある村社淡洲神社とは別の神社。
- 浅間神社
- 熊野神社
- 森林霊園 - 福田石の採掘場跡が納骨堂として利用されている。
施設
- 滑川町役場
- 滑川町立滑川中学校
- 滑川町立福田小学校
- 国営武蔵丘陵森林公園 - 園内の西部を占める。
- 滑川福田郵便局
- 東松山警察署滑川福田駐在所
- 滑川町立図書館
- 滑川町エコミュージアムセンター
- 滑川町立体育館
- 滑川町総合運動公園
- 福田両表集会所
- 福田馬場集会所
- 福田下向古姓集会所
- 福田小川谷集会所
- 中在家集会所
- 福田円正寺集会所
- 滑川町シルバー人材センター
- 高根カントリークラブ
脚注
- ^ a b “統計資料<ひと>”. 滑川町. 2017年11月2日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2017年11月2日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』角川書店、1987年7月再版、PP748-749。
- ^ a b c d 『埼玉大百科事典 第四巻』埼玉新聞社、1975年3月、pp318-319。
- ^ a b 地学団体研究会埼玉支部日曜地学ハイキングの記録・第351回~第360回(2001年8月~2002年7月),2011-05-31閲覧。
- ^ 区長名簿-滑川町,2011-05-31閲覧。
- ^ a b c d e 『新編武蔵風土記稿巻之百九十四 比企郡之九』福田村の条。『大日本地誌大系(十)新編武蔵風土記稿 第十巻』、雄山閣、1957年11月所収。
- ^ 吉田東伍『大日本地名辞書 巻六 坂東』、冨山房、1992年9月新装第1刷、p464。
- ^ “小・中学校の通学区域について”. 滑川町. 2017年11月2日閲覧。
参考文献
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』角川書店、1980年7月8日。ISBN 4040011104。
関連項目
- 福田 (曖昧さ回避)
- 沼普請
外部リンク
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菅田 | 熊谷市小江川 | 土塩 | ![]() |
和泉 | ![]() |
山田 | ||
![]() ![]() | ||||
![]() | ||||
伊古/滑川 | 中尾 | 羽尾 |
「福田 (滑川町)」の例文・使い方・用例・文例
- 私、株式会社福田製薬の総務部の阿部と申します。
- 福田さんの家へちょっとよって行こう。
- 彼は福田派に属していました。
- 福田教授はバイオテクノロジーの分野で優れた業績をあげている.
- 福田康(やす)夫(お)内閣官房長官は5月7日の記者会見で辞任を表明した。
- 福田氏を含む7人の閣僚が,義務づけられている国民年金の保険料を納めていなかったと認めた。
- 4月23日に,福田氏は60歳の時点で保険料を支払っていたと述べた。
- その後4月28日には,福田氏は3年1か月間保険料を支払っていなかったことを認めた。
- 5月7日に発売された週刊誌は,福田氏が実際は5年8か月間保険料を納めていなかったと報じた。
- これは福田氏が石油会社を退職した後,衆議院議員になる前の13年間のことだった。
- 福田氏は自分が国民の政治への信頼を弱めたと認めている。
- 福田首相が拉(ら)致(ち)被害者家族と会談
- 10月26日,福田康(やす)夫(お)首相は北朝鮮によって拉(ら)致(ち)された日本人の家族と首相として初めて面会した。
- 面会で,福田首相は被害者家族との関係を改善したいと強調し,「私はかつて対話を重視しすぎると非難された。しかし,この問題についてみなさんを本当に助けたいと思っている。」と話した。
- 当時の官房長官だった福田氏は,拉致被害者のうち一部はすでに死亡したという北朝鮮のメッセージを家族に伝えた。
- 福田氏は対話重視の姿勢を続け,このことが被害者家族の不信を招いた。
- 被害者家族の代表である横田滋(しげる)さんは,福田首相との面会後に「これほど長いこう着状態を経て,事態が好転することを期待している。」と話した。
- 被害者家族のもう1人の代表である飯(いい)塚(づか)繁(しげ)雄(お)さんは,福田首相がこの問題の追求にそれほど熱心であるように感じられなかったと話した。
- 福田首相が辞意を表明
- 9月1日,福田康(やす)夫(お)首相が記者会見を開き,突然辞意を表明した。
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