社会民主党時代
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1997年に社会党の後身である社民党に入党した。党外交・防衛部会長を務めた。民主党の成立後は左派色を前面に出して活動した。 1998年第18回参議院議員通常選挙に福島瑞穂が立候補した(結果、当選)際『瑞穂はやっぱり社民党』というキャッチコピーを考えたのは田である。 1999年8月に参院本会議の国旗・国歌法に反対した。 2001年7月の第19回参院選では戦争に対する危惧から、以前より表明していた引退を撤回して比例代表区(社会民主党)から出馬するも落選する。しかし田嶋陽子の議員辞職に伴って2003年4月に繰り上げ当選となり、6期目を務めることになった。 2003年、静岡空港建設反対の国会議員署名活動で署名者に加わっている。 2004年の年金国会においては、本会議における年金法案の採決阻止を目的として与党出身者を議長職から退かせた場合に、最年長議員が仮議長を務める国会の慣例として名前が浮上していた。しかし副議長の散会宣言に同調して再出席しなかったこともあるが、最年長議員が仮議長に就任する慣例がないと参院事務局から見解を出されて、仮議長には就任できなかった。 2005年3月、脳内出血を患い4月からは療養のために国会に登院していなかったが2005年8月には郵政国会において政局となった郵政法案の賛成派と反対派が拮抗し、1票の価値が重要視されるようになると4ヶ月ぶりに登院し、反対票を投じた。 2006年12月、2007年夏の参院選に出馬しないことを表明し、34年間の議員生活を終えた。
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社会民主党時代
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2000年6月、第42回衆議院議員総選挙に神奈川12区から社民党及び神奈川県医師会公認で出馬。選挙区では民主党の江崎洋一郎、自由民主党の桜井郁三らに敗れ得票数は4位であったが、重複立候補していた比例南関東ブロックで復活し、初当選した。以後、6期連続で比例復活当選。2003年、離党した大脇雅子の後任の政策審議会長に就任し、阿部自身が2012年に離党するまで、9年間にわたり同職を務めた。その間は執行部の一員であったが、2007年11月の党首選の際、現職の福島瑞穂の推薦人に大半の党所属国会議員が名を連ねる中、阿部は推薦人にならず、「護憲のみに偏重した現在の党の活動は改めるべき」と注文をつけ、党内では現実路線を訴えた。同選挙では福島が無投票で再選し、執行部人事では阿部を執行部から外す考えであったが、後任に推された辻元清美が固辞したため、結局阿部を政審会長に留任させた。 2009年の第45回衆議院議員総選挙では社民党は民主党、国民新党と選挙協力を行ったが、神奈川12区では民主党の中塚一宏との分裂選挙となる(国民新党は阿部を推薦)。神奈川12区では中塚が当選し、比例南関東ブロックで復活し4選を果たした。政権交代により、与党議員となる(2010年6月まで)。
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社会民主党時代
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「オットー・シュトラッサー」の記事における「社会民主党時代」の解説
この頃オットーは、SPDの圏内で行動していた。ベルリン大学では学徒兵士のための待遇改善要求を掲げる学生組織「ドイツ大学出征学徒団体 (Akademischer Kriegsteilnehmerverband Deutschelands)」を結成して、そのイェーナでの全国会議で議長に選ばれたり、SPDの機関誌『前進』(Vorwärts)の学生向けの付録版の校正をやったり、労働者向けに歴史やドイツ語や速記術の講演をしたりしている。1920年3月13日、反動政治家カップがエアハルト旅団らと組んでクーデターを起こした折りには、反カップ派の自警団に加わり、100人隊の隊長になり、ベルリン郊外のシュテーグリッツ(ドイツ語版)の防衛に参加した。しかし、SPDに対する彼の帰依はそれほど根が深いものではなく党内で行動しながらもしだいに党に対する疑念が募って行く。社会化政策に積極的でなく、ヴェルサイユ条約の履行政策を続けブルジョア憲法を採用する党の方針に不満を持ち、共産主義革命とは違った方向で行動的な革命性を求めるかれの燃えるような心情は、妥協の日常性に終始し革命精神を失った党の事務的官僚化についてゆくことはできず、オットーは党を去ってゆく。
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