社会民主党の転換
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「ヴィリー・ブラント」の記事における「社会民主党の転換」の解説
一方ボンの中央政界では社会民主党は核武装反対運動を展開し外国軍の撤兵を求めたが労働総同盟はゼネストを打てずに孤立していった。国内が繁栄し始めると、西ドイツ国民はドイツ再統一やイデオロギー論争よりも経済的豊かさと私生活の充足に関心が移っていた。1952年にシューマッハーの死後に社会民主党を率いていたエーリッヒ・オレンハウアー党首は、1957年にそれまで反対していた欧州経済共同体と欧州原子力共同体に関する条約に賛成する姿勢に転じ、1958年5月のシュトゥットガルトの党大会で社会民主党の執行部を刷新してブラントは執行部入りを果たした。そしてついに社会民主党は1959年11月15日にバート・ゴーデスベルクで開かれた党大会で新しい綱領を採択して結党以来のマルクス主義を否定して、階級政党から国民政党への転換を宣言し、経済政策についても「可能な限りの自由競争」「必要な限りの計画化」として市場経済を承認し、「様々な思想信条からなる人々の共同体」として自由な精神の党として生まれ変わっていった。 さらに翌1960年には西欧・西側世界との協調、自国の安全保障の重視を明確にして、西ドイツの北大西洋条約機構(NATO)加盟と徴兵制を認めた。そしてこの党の刷新を象徴するように11月の党大会でブラントは社会民主党の首相候補に選ばれた。しかしこの党大会は新旧の路線対決の場となり、ブラントを次期連邦議会選挙で社会民主党首相候補にしながら、彼の党内役職はずっと下位で執行部では22番目の地位にしてしまった。オレンハウアー党首と代議員の多数は外交政策と安全保障政策で政権党の路線に追随するものとして対決よりも協調を重視する路線を好まなかった。この時、ブラントはあくまで選挙戦用の首相候補者に過ぎなかった。この連邦議会選挙における首相候補というのは、西ドイツにおいて選挙時にあらかじめ政党は選挙後の首相指名投票で誰を指名するかを明示するもので、必ずしも党首が首相候補者になるとは限らないものであった。
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