階級政党から国民政党へとは? わかりやすく解説

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階級政党から国民政党へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:46 UTC 版)

ドイツ社会民主党」の記事における「階級政党から国民政党へ」の解説

1952年8月にはシューマッハー死去し、オレンハウアーが後継党首となり、1963年死去まで党を指導した。彼も当初シューマッハー意志継いでドイツ再統一至高目標にし、西欧統合政策反対した。しかし冷戦激化ドイツ再統一はますます困難となり、西ドイツ国民大半驚異経済復興相まってアデナウアー西欧統合外交支持していた。逆に社民党西欧統合政策への抵抗路線はどんどん社民党孤立させていた。 社民党1953年連邦議会選挙1957年連邦議会選挙連敗し1950年代通じてキリスト教民主同盟/キリスト教社会同盟後れを取り続けた。さらに党員数1947年には87万人超えていたのが、1950年には68万人1950年代半ばには58万人低下一途辿った。 その危機感から社民党内、特に社民党連邦議会議員団の間には、もっと現実的な政策をとって労働者階級だけでなく中間層支持広げていかねばならないという考え広まった1953年から1959年ゴーデスベルク綱領として結実するまでの6年間に階級政党から国民政党への議論盛んに行われた。オレンハウアーも党内妥協重視する人間だったのでその方向へ向けて党改革進めていった。 1954年7月ベルリン党大会は、1952年採択されドルトムント行動綱領(Dortmunder Aktionsprogramm)に「SPD誕生した時の労働者階級政党から国民政党になった」というゴーデスベルク綱領引き継がれる一文初め追加した1957年には社民党西ドイツ欧州経済共同体(EEC)への加入賛成し西欧統合賛成する立場転換した1958年シュトゥットガルト党大会党組織改革決議されそれまで党の主導権握ってきた党執行部有給幹部制度有給幹部社会主義的イデオロギー信奉者多かった)が廃止された。代わって党幹部会が設置され、その多数連邦議会議員占めることになった。これにより社民党社会主義イデオロギーより連邦議会選挙勝利重きを置く傾向強めたその結果1959年にはバート・ゴーデスベルク党大会においてバート・ゴーデスベルク綱領制定された。この綱領によって社民党マルクス主義階級闘争絶縁し中道左派国民政党へと転換した経済については「可能な限り市場必要な限り計画」と謳って市場経済原則とし、手段議会主義改良自己目的とした。 1960年6月には北大西洋条約機構(NATO)による西側軍事同盟体制容認へと転換したこうした路線転換功を奏し社民党徐々に大衆浸透しはじめた1961年連邦議会選挙1965年連邦議会選挙は、依然として野党から脱することはできなかったものの、その得票着実に伸ばしていった。

※この「階級政党から国民政党へ」の解説は、「ドイツ社会民主党」の解説の一部です。
「階級政党から国民政党へ」を含む「ドイツ社会民主党」の記事については、「ドイツ社会民主党」の概要を参照ください。

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